しなおした。
 朝子はそうなると、なお笑うだけで、パイをたべていたが、
「モダンだって幾通りもあるんじゃないの――少し話は違うけれど」
と云った。
 全く、個人的に自己消耗だけ華々しく或は苦々しくやって満足している部と、それが一人から一人へ伝わり、或る程度まで一般となった現代の消耗が身に徹《こた》えて徹えてやり切れず、何か確乎とした、何か新しいものを見出さなくてはやり切れながっている人たちもきっとある。朝子は自分の苦痛として、それを感じているのであった。後者に属する人は、強烈な消耗と同時に新生の可能の故に、自分を包括する。更にひろい人間は、群を忘れることが出来ない。例え、それに対して自分は無力であろうとも忘れることは出来ない。
 朝子は、考え考え珈琲を含んだが、不図、一杯の珈琲をも、自分達は事実に於て夥しい足音と共に飲んでいるのだと感じ、背筋を走る一種の感に打たれた。
 朝子は、やがてぶっきら棒のように、富貴子に訊いた。
「いつか――あなたとだった? 底知れぬ深さ、っていう詩読んだの」
「さあ、……そうかしら」
 彼女等のいるボックスを、色彩ではたくようにして入って来た若い一団に気をとられ、富貴子はうっかり答えたが、
「おや、もうあんな時間?」
 自分の手頸と、花模様の壁にかかっている時計とを見較べ、富貴子は、
「大変、大変」
と、油絵で薔薇を描いた帯の前をたたいて立ち上った。
 朝子もタクシーで、十一時過ぎ家へ着いた。

        十

『明るい時』と云うベルハアランの小さい詩集がある。その中に、底知れぬ深さ、その他朝子の愛する小曲が数多《あまた》あった。
 帰ってから、それを読み始め、朝子が眠りについたのは二時近くであった。電燈を消そうとし、思いついて、旅行案内をとりに行った。幸子の汽車が、静岡と浜松の間を走っている刻限であった。
 翌日は晴れやかな日で、独り食事などする静かな寂しさも、透明な秋日和の中では、いい心持であった。
 朝子は午後から、亀戸の方へ出かけた。市の宿泊所に用があった。かえりに彼女はセットルメントへ寄って見た。新たに児童図書館が設けられ、赤児を結いつけおんぶした近所の子供が、各年級に分れた卓子を囲んで、絵本を見たり雑誌を読んだりしていた。托児所の久保という女が朝子を以前から知っていて、案内をしてくれた。彼女はリューマチスで、二階の私室で休んでいた。髪をぐるぐる巻きにして、セルの上へ袷羽織を着た久保は、やせた肩越しに、朝子を振り返り、
「私の方も見て下さい、そりゃ私、骨を折っているんですよ」
 渡廊下の踏板を越えながら云った。
「みんな若い人達ばかりで、ただおとなしく四時まで遊ばしときさえすればいいと思ってるんだから。――そんな人の方が、またお気に入るんですからね。私喧嘩したってこうと思うことはやって貰うんです。いやな女だと思っているだろうけど、いざ子供を動かすとなると、どうしたって、そりゃ、私でなければならないことが起って来るんですからね」
 久保は、自分一人で切り廻しているように云った。そして、変質な子が一人あって、それが誰の云うこともきかない、髪をむしって暴れるようなのを、自分がこの頃すっかり手なずけた苦心を朝子に聞かせた。
 別棟になって、広い遊戯室や、医務室や、嬰児室があった。遊戯室の板敷に辷り台や、室内ブランコなどあって、エプロンをかけた幼い子供達が遊んでいた。先生が、やはりエプロンを羽織って、一隅に五六人の子供を寄せて、話をしてやっていた。室じゅうに明るい光線がさし込んでいた。その中で、子供のエプロンや、兵児帯の赤や黄色が清潔な床の上にくっきり浮立って見えた。知らぬ朝子が入って行ったせいか、子供が、割合おとなしく遊んでいる。朝子は、その行儀のいいのが少し自然でないように感じた。そのことを云うと久保は、
「今、おとなし遊びの時間なんですよ」
と云った。そう云いながら彼女は、窓を見廻していたが、
「ああいますよ」
 窓際の子供達に向っておいでおいでをし、
「今村さん、こっちへいらっしゃい」
と呼んだ。若い先生は顔をあげ、子供と久保とを見たが、直ぐあちらを向いた。
「何なの、いいの、呼んで」
「かまわないんですよ」
 紺絣の着物を着た、頭の大きい男の児が、素足へ草履をはいて、久保の傍へ来て立った。
「さ、こちらの先生に御挨拶なさい」
 子供の肩へ手をかけ、自分の身に引き添えた。素直にされるままになっているが、三白眼のその男の児が久保を愛しても、なついてもいないのは、表情で明らかであった。芸当を強いるようで、朝子は、
「およしなさいよ」
と止めた。
 久保は、去りたそうにしている児の肩を押えたまま、なお、
「今村さん、先生の云うことは何でもきき分けるわね」
などと云った。
 朝子は、彼女の部屋
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