いいけれど、この素介なんぞ――」
「――君に解ってたまるもんか。――第一そのアッペル何とかいうの、ドイツの男だろう? ドイツ人の頭がいいか悪いかは疑問だな。フランス人の警句一つを、ドイツ人は三百頁の本にする。そいだけ書かないじゃ、当人にも呑込めないんじゃないかな」
「頭のよしあしじゃない、向きの違いさ」
 アッペルバッハの説は、マゾヒスト、サディストの両極の外に男性的、女性的、道徳性、智能性その他感情性などの分類法を作り、性能調査の根底にもするという学説であった。朝子は、
「政治家になんか、本当にサディストの質でなけりゃなれないかもしれない」
と云った。

        七

 夕方近く、幸子が教えたことのある末松という娘が、も一人友達と訪ねて来た。何か職業を見出してくれと云うのであった。
「経済上、仕事がなけりゃ困るんですか」
「いいえ、そうではありませんけれど……」
「家に只いても仕方がないというわけですね――で? どんな仕事がいいんです?……何に自信があるんです?」
 末松は、並んでかけた椅子の上で、友達と互に顔を見合わせるようにし、間が悪そうに、
「何って……別に自信のあるものなんかありませんけれど――、若し出来たら、雑誌か新聞に働いて見たいと思います」
「そういう方は、ここにいる朝子さんに持って行けば、何かないもんでもないかもしれないけれど……ジャアナリストになるつもりなんですか? 将来」
 そこまで考えてはいなかったと見え、娘達は身じろぎをして黙り込んだ。幸子は、自分まで工合わるそうに微笑を顔に浮べ、暫く答を待っていたが、やがて学生っぽい調子で、
「――その位の気持なんなら、却って勉強つづけていたらどうなんです」
と云った。
「ひどい不景気だから、きっといい口なんぞありませんよ。あったにしろ、そんな口にはあなたがたより、もっと、今日生きるに必要な男が飛びついています」
 不得要領で二人が帰った。窓際へ椅子を運び、雑誌を繰りながらそれ等の会話をきいていた大平が、体ごと椅子をこちらへ向け、
「ふうわりしたもんだな」
 好意と意外さとをこめて、呟いた。
「会社に働いている連中も、ああいう娘さん達のワン・オブ・ゼムか」
「簿記や算盤が達者なだけ増しかもしれない」
「然し、変ったもんだなあ」
 大平が、真面目な追想の表情を薄い煙草色の細面に現わして、云った。
「とにかく、相当教育のある連中が、脛かじりを名誉としなくなったんだからなあ。青年時代の熱情には、経済観念が、全然なかった。今の令嬢は、独立イクォル経済的自立と、きっちり結びつけているんだから油断ならない」
 そして、彼は持ち前の、ちんばな、印象的な眼で、
「ここにも現に一人いらっしゃるが……」
と、朝子の顔を見て笑った。
「同じ判こをついて廻す帳面でも、中に、例えばまあ、あさ子なんて小さい印があるとちょっと悪くないな」
 幾分照れ、朝子は、
「じゃ、私女学校の先生に世話して上げるわ」
と云った。
「そうしたら、右も左もボンヌ・ファム(美人)ばかりよ」
 大平は、直ぐそれをもじって、皮肉に、
「ボーン・ファーム(骨ごわ)?」
と訊き返した。
 朝子は、別に笑いもせず大平の顔をみていたが、やがて云い出して、
「ね、お幸さん、どう? 私この頃懐疑論よ。働く女のひとについて。女権拡張家みたいに呑気《のんき》に考えていられなくなったわ」
「ふうむ」
「自分の職業なら職業が、人生のどんな部分へ、どんな工合に結びついているか、もう少し探究的でなけりゃ嘘なんじゃないのかしら。ただ給料がとれていればいい、厭んなったらその職業すてるだけだ。それじゃ、つまり女も男なみに擦れて、而も、彼等より不熟練で半人前だというのが落ちなんじゃないの」
「女性文化なんてことは、そこが出発点だね」
 大平が言葉を挾んだ。
「然しね」幸子が寧ろ大平に向って云った。
「女性文化必ずしも、女は内にを意味しやしないからね。――あなたも知ってる、ほら日野、東北大学のあのひとの奥さん、もう直き立派な女弁護士ですよ」
「変てこな表現だけど」
 ちょっと笑い、朝子が、
「私のは、超女性文化主義よ」
と云った。
「その奥さんの方、きっと、男の弁護士が利益の寡《すくな》い事件に冷淡だったり、自分の依頼者を勝たせるためには法網を平気でくぐったりするのに正義派的憤慨で、勉強をお始めんなったのよ。また、女が罪を犯す心理は、女に最も理解される、そこまでが女性文化じゃない? 謂わば。それなら、自分が楯にとったり、武器にしたりする法律というものはどんなものか。どんな社会がこしらえたか。社会とはどんなものか。理窟っぽいみたいだけれど、この頃、自分の職業でも、追いつめて行くと、何だかそこまで行っちまうのよ」
「――つまり我等如何に生くべきか、
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