。両側からもたせあった長い活字棚、その中へ、活字を戻している小僧や若い女工の姿も見えた。
外見既にがたがたで、活字の重さや、人間の労働のために歪み膨らんだ建物の裡は、暗そうであった。女工が、その、こちらに向いて開いた狭い窓際を何かの用で通り過るときだけ、水浅黄の襦袢の衿など朝子の目に入った。朝子はもう余程前、
「いつか工場見せて下さいな」
と嘉造に云った。
「どなたにもお断りしておりますんで――どうも……穢くて仕方ありませんですよ御覧になったって」
彼は、そう云って、机の上にひろげた新聞の上へ両手をつき、片手をあげて、ぐるりと頭の後を掻いた。
朝子のいる室を板戸で区切った隣室で、二人の職工がこんなことを云っている声が聞えた。
「――陰気くさいが、柳なんぞ、あれで、陽《よう》のもんだってね」
「そうかねえ」
「昔何とか云う名高い絵描きが幽霊の絵をたのまれたんだとさ。明盲《あきめくら》にしたり、いろいろやるが凄さが足りない。そこで考えたにゃ、物は何でも陰陽のつり合が大切だ。幽霊は陰のものだから陽のものを一つとり合わせて見ようてんで、柳を描いたら、巧いこと行ったんだって」
「ふうむ」
「――死ぬと変りますね、男と女だって、生きてるときは男が陽で女が陰だが、土左衛門ね、ほら、きっと男が下向きで、女は上向きだろう。――陰陽が代って、ああなるんだとさ」
「……じゃあお辞儀なんか何故陰の形するんだろう……」
工場らしい話題で、朝子は興味をもち、返事を待った。けれども、何故辞儀に陰の形をするのか、職工はうまい説明が見当らなかったらしく、やや暫くして静かに、
「そりゃ私にも解らないねえ」
と云う声がした。
三
五時過ぎて朝子は帰途についた。
日の短くなったことが、はっきり感じられた。印刷所を出たとき、まだ明るかったのに、伝通院で電車を待つ時分にはとっぷり暮れた。角の絵ハガキ屋の前に、やっぱり電車を待っている人群れが逆光で黒く見える、その人々も肌寒そうであった。
朝子は、夕暮の雰囲気に感染し、必要以上いそぎ足で講道館の坂をのぼった。向うから、自動車が二台来た。それをさけ、電柱の横へ立っている朝子の肩先を指先で軽くたたいた者があった。
朝子は振りかえった。敏捷に振り向けた顔をそのまま、立っている男を認めると、彼女は白い前歯で下唇をかむように、活気ある笑
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