の方の打算なしにおやりになってしまうところが一寸変って居ますわね。ね、一寸出来ませんわね、」
西「それにあの人は、男の人が、女と云うことを忘れまるで平気にあの人と議論するし、伊藤さんも他の人とは異うと寛大にしていらっしゃるので、あの方はそれをかん違いし、皆、自分を愛して居るかと思いなさるのですよ。だから男の人が、そんなに思われて居るのは迷惑だって云います。あの人は私共の仲間の愛嬌ものですよ。」
          ――○――
 私の思うのに。
 このことは、愛嬌以上だ。朝子の方は所謂醜女の深なさけで、男が、女と思わず手にさわり喋りするのを、自分が卓越して居る為とか、愛されて居る為とか思って幸福に人生を麗らかにして居るところ痛ましきかぎり。又良人が自由にさせたい通りさせて置くのを、一層深き理解と愛の為と思い込んで居る女の愛らしさ。殆ど涙の出るものがある。
 その関係を書いて見たい。なかなかむずかしい。

     Aの「かまわない」

△「何をあがりますか」
A「何でもかまわない」
 食事になる。終りに近づいてから。
A「今日は僕のすきなものばっかりだ。」
△心でよろこび「そうでございますか」
A「ちっともたべられやしない。皆ぼくのきらいなものばっかりだ。」
 Aはきかれると何でもよい、どうでもよい、と云うくせに、心持ではちっとも何でもよく、どうでもよいのではない。自分の思うようでないと、不平を洩す。故にする方は、前もって、その底まで考える必要あり。陰性の我ままと云うべし。

     自分とT先生との心持

 自分とT先生との心持――寧ろ、自分のT先生に対する心持は深く、強く、ごまかし難いものだ。
 師弟の関係に於て何かのよいきっかけを見つけ、書きたい。
 この心持、佐藤春夫の見失われた白鳥の話にある。
「妙に根本的に考える」私の性癖によるのだ。

     ○敏感すぎる夫と妻

 妻、ひとりで家に居、女中が留守になったので朝食事の用意を簡単にする為、オートミールでもあればよいなと、考えて居る。――夫の着物を火鉢にあぶったり、炭をなおしたりし乍ら。すると、玄関があき夫がかえって来、「今日明治屋によって来た」と云う。
「まあ! 珍しいのね、どうして」ふっとオートミールのことを思い出し、ふざけ半分にきく
「買っていらしったもの、当てて見ましょうか」
 靴をぬぎつつ
「うむ、何だと思う?」
 少し余裕をおき
「オートミールでしょう?」
「当った。形でわかるね」
「買って来て下さればいいと思って居たのよ。」
 以心伝心でうれしいような、不気味なような心持。
 その次にも、又次にもそんなことがあり、終に或日、何かでけんかをし、相手を死ぬと云うように思う。考え乍ら、或ことが閃き、フと妻が顔をあげて夫を見る。夫の顔の暗さ。妻、獣のような眼の光で
「同じこと? 考えて居らっしゃるのは。――私の考えて居るのと」
 夫、烈しく
「馬鹿!」
 静かな夜、戸外を走る自動車の音。

     ○まつとケットウ

 まつ、女中が辛棒しきれず、べっとうと結婚する。すぐいやになったが、ケットウが惜しくてわかれられない、と云う。
 ケットで代弁させて居る未練。

     ×本野子爵夫人のくれた陶器

 父、母と本野子爵に呼ばれた。
 父、あの調子ではしゃぎ mantelpiece の上のオランダをほめる。(まがいと知っては居たが)
 子爵夫人、夫をすすめ、建築の少ない礼の足しにそれをよこし、父、母に叱られる。

     常磐木ばかりの庭はつまらない

 うちの庭は、殆ど常緑樹ばかりだ。東の南の背の高い、よく雀が来てとまるひば、一杯の引かぶった松、あすなろう。八つ手、沈丁、梅、花のさかないかれた梅、*中、つやのない葉を隣りの家の西日のさすはめにうつして居るバラ。
 先に住んで居た人の置いて行った箱庭にさえ、小さなつげとつつじが、黒い、緑のよごれた毛糸のたまのようにくっついて居る。
 私は、秋になると葉をおとす紅葉やポプラーや、鈴かけのようなものが欲しい。
 冬、細そりした裸の枝は美しい。夏の空想の美くしさ。

     十二月三十日(一九二三)

 佐藤春夫氏の都会の憂鬱に、
「しかし何時如何なる場合にも、『父と子』とは『父と子』であることを忘れてはならない」
と云う一句がある。
 これは、本当の言葉だ。誰でも、文学に志して其を感じないものはないだろう。
 先日、私が林町に行った時、(九月一日の震災後で、佐野利器氏や何かが復興院の顧問になったこと等が新聞にも出る時であった。)母が突然
「百合ちゃんもタイトルでもとるといいね。」と云われた。
 自分は寧ろ驚き、同時にひどく不快を感じて
「何故? 学者と芸術家とは異うことよ。芸術家は学者以上と云えてよ一方から見ると。学者には学んでなり得る。芸術家には、勉強丈ではなれない。」
 傍に居られた父上が
「そうだ。偉大な芸術は、総てを包含するものだ」と云われた。
 すぐ前後の社会的事情を考え、母の心持に潜むものを感じ、父上に気の毒のような、単純さが滑稽のような心持になった。
 本当に親は子を愛す。然し子を殺すものも親だ。



底本:「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年5月30日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第2版第1刷発行
初出:同上
※「*」は不明字。
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2004年2月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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