む、何だと思う?」
少し余裕をおき
「オートミールでしょう?」
「当った。形でわかるね」
「買って来て下さればいいと思って居たのよ。」
以心伝心でうれしいような、不気味なような心持。
その次にも、又次にもそんなことがあり、終に或日、何かでけんかをし、相手を死ぬと云うように思う。考え乍ら、或ことが閃き、フと妻が顔をあげて夫を見る。夫の顔の暗さ。妻、獣のような眼の光で
「同じこと? 考えて居らっしゃるのは。――私の考えて居るのと」
夫、烈しく
「馬鹿!」
静かな夜、戸外を走る自動車の音。
○まつとケットウ
まつ、女中が辛棒しきれず、べっとうと結婚する。すぐいやになったが、ケットウが惜しくてわかれられない、と云う。
ケットで代弁させて居る未練。
×本野子爵夫人のくれた陶器
父、母と本野子爵に呼ばれた。
父、あの調子ではしゃぎ mantelpiece の上のオランダをほめる。(まがいと知っては居たが)
子爵夫人、夫をすすめ、建築の少ない礼の足しにそれをよこし、父、母に叱られる。
常磐木ばかりの庭はつまらない
うちの庭は、殆ど常緑樹ばかりだ。東の南の背の高い、よく雀が来てとまるひば、一杯の引かぶった松、あすなろう。八つ手、沈丁、梅、花のさかないかれた梅、*中、つやのない葉を隣りの家の西日のさすはめにうつして居るバラ。
先に住んで居た人の置いて行った箱庭にさえ、小さなつげとつつじが、黒い、緑のよごれた毛糸のたまのようにくっついて居る。
私は、秋になると葉をおとす紅葉やポプラーや、鈴かけのようなものが欲しい。
冬、細そりした裸の枝は美しい。夏の空想の美くしさ。
十二月三十日(一九二三)
佐藤春夫氏の都会の憂鬱に、
「しかし何時如何なる場合にも、『父と子』とは『父と子』であることを忘れてはならない」
と云う一句がある。
これは、本当の言葉だ。誰でも、文学に志して其を感じないものはないだろう。
先日、私が林町に行った時、(九月一日の震災後で、佐野利器氏や何かが復興院の顧問になったこと等が新聞にも出る時であった。)母が突然
「百合ちゃんもタイトルでもとるといいね。」と云われた。
自分は寧ろ驚き、同時にひどく不快を感じて
「何故? 学者と芸術家とは異うことよ。芸術家は学者以上と云えてよ一方から見ると。学者には学んでなり得る。芸術家には、勉強丈ではなれない。」
傍に居られた父上が
「そうだ。偉大な芸術は、総てを包含するものだ」と云われた。
すぐ前後の社会的事情を考え、母の心持に潜むものを感じ、父上に気の毒のような、単純さが滑稽のような心持になった。
本当に親は子を愛す。然し子を殺すものも親だ。
底本:「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社
1981(昭和56)年5月30日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第2版第1刷発行
初出:同上
※「*」は不明字。
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2004年2月15日作成
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