ることを見もききもしないで下さいね
彼女は白い股を開いて旺盛に水の迸る音をさせた。音がやむと同時にすっくり白い牝馬のように彼女は立ち上った。――
(日本女子の袂にある Chirigami と称する存在はСССРの白き肉体の末端にとって「知られざる習慣」であるのだろうか)
十六日
今度の共産党事件のリーダーであった三人の若い主義者の一人××さんの親御と私はずっと前から知り合いの間柄であった。
国は九州です。こっちへ立って来る前 国へかえったら××さんのお父さんがわざわざ会いに来られての話に
「○○がもう一年で大学を卒業するというとき、突然もう学校はやめたいと思いますと云い出した時には 実に天地が暗くなる程驚きました。が何ともいたしかたない。彼は学校をやめて鉱山に入ってしまった。そして労働運動の指導者になった。私にはどうしても息子の考えがわからぬ。いろんな噂が聴える。段々私の地位も危くなるようであった。ところがあの事件で牢へまで入ることになったがあれの態度は公判のときもなかなか立派であった。牢へ入ろうが どうしようが、ゆるがぬ決心が見られた。これが私には分らぬ。御承知の通り、あれは中学をずっと一番で卒業した。大学でもよい方だった。あれだけ決心して身を捧げるからには、あの仕事の中に必ず何か真実がなければならぬと思うのです。その真実はどんなものか私はそれを知って自分の息子のやることを理解したいと思う。こんどロシアへいらしったら、どうぞ彼方の様子もよく視ていらして下さい。いろいろ御話を承りたい。」
――実に親の心ではありませんか。そこで私が訊いて見た。「貴方はこれまで息子さんをどう教育していらっしゃったのですか」
××さんが云われるには
「――私はただ嘘をつくなとだけ云って育てて来ました」
私は答えたが
「貴方のその願いは完全に果されたと云うものです」
今の世で嘘をつかぬということはこれ丈のことを意味するのだと感じました。
この話は自分を感動させた。聞いて居る間に涙が出たが 後でYに話してきかそうとし、自分は終りまで一気に喋ることが出来なかった。
二十五日
十日ばかり経つがこの話から承けた感銘が消えぬ。心が心を撲つ力は「尤な理論」にだけはない。それを生きる、生きかた真情の総計中に在る。
――○――
○日
m来。クリスマスの日に行ったら居なかった話をする。
レーニングラードの家へかえって居た由。
Kの病気は肺嚢がわるそうな様子だったがバセドーウ氏らしい。勤先の国立出版所から一ヵ月半休暇をもらってクリミヤの休養所へ行って居る。
――どんなだって?
――初めのうち大変よかったけれども、あとはそうでもないように書いてよこしました。でももう直きかえって来るでしょう。
――どうして? よくならなくても?
――休暇が一ヵ月半しかないんですもの、かえって又工合がわるいようなら、再び休暇をとって行くことになるでしょう、
――療養所の医者の証明でもっと居るわけには行かないんですか?
――いいえ。それは出来ません
mは疑をはさまず首を振って いいえそれは出来ませんと云ったが、自分は此点は不合理だと思う。
СССРの勤人が休暇をもらって休養所へやって貰える制度は非常によい。
然し欠点がある。
クリミヤ モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]間は少くとも五日ぶっ通しの汽車旅行を必要とする。汽車には食堂がついて居ない。チェホフが薬罐を下げて走ったように Kも駆けて食物を調えなければならぬ。
一ヵ月半折角休養所に居た。なおり切らないところを、そういう旅行で疲れ、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で再び許可を得るために医者歩きをし、愈々《いよいよ》まだ駄目だときまって、クリミヤへ戻る頃は一ヵ月半の休養は元もこもなくなって居るであろう。
療養所の医者と勤務先との間に連絡ないことは、恐るべき金、時間、精力の浪費を来して居る。消耗をいとわぬロシア人のうねりの大きな純然たるロシア的不便さだ。
○日
ファイエルマンがこういう話をした。レーニングラード附近の或田舎での出来事だ。
誰かが七歳と四歳になる二人の女の児を雪の深い森へ連れ込み零下十何度という厳寒《モローズ》の中へ裸にして捨てて行った。
女の児は凍え始め劇しく泣き出した。
もう日暮で――冬は午後四時にとっぷり暗くなる――折から一台の空橇が雪道を村へ向ってやって来た。
森の中から子供の泣き声がする。百姓は恐怖した。チミの仕業だと思ったのだ。彼は手綱をとって馬の腹をうった。森の中から児供の泣き声は次第に近づき小さい裸の人間の形をしたものが雪路の上へ飛び出して来た。そして泣き叫びつつ橇を追っかけ始めた。百姓は夢中で橇を速める。小さい裸の人間の形をしたものも益々泣き叫んで追っかけて来る。――馬の尻をたたきつづけて百姓はやっと村へ着き、恐ろしかった自分の経験を人々に話した。
怪しんで村から人が出た。
百姓の逃げ去った雪路の上には、その橇の止金にかかって片腕をもがれた七歳の女の児の死骸が発見された。四つの女児は森の中で凍死んで居た。
二十四日
細いゴムの管がある。管は二米ばかりの長さだ。先に小さい楕円形 紅茶こしのような金のたまがついて居る。それをたまの方から嚥《の》み下さなければならない。十二指腸から胆汁をとる療法だがこのゾンドなるものをかけられる時は一種悲しき芸当の感じだ。フセワロード・イワノフが曲芸師であった時嚥んだ剣より工合がわるい。イワノフの剣はバネで三分の一ずつ縮んだ。このゴム管は本当に腸まで嚥み下さなければならぬ。眼尻に流れた涙を手の甲でふいて、右脇を下に臥て、コップの中に胆汁の滴るのを待つ。
医者は去年大学を出た青年だ。彼のところには一匹のセッター種の犬と妻とがある。フランス藍色の彼の服は襟がすり切れた。アフガニスタンからアマヌラハンが逃げる前 月六百留で医師を招|聘《ヘイ》して来た。残念なことに彼にはその時まだディプロマがなかった。――
独逸《ドイツ》の女子共産党員――がСССР女性生活について書いたものが 文芸戦線にのって居た。*月号第○頁
疑問なき簡明な文章だが実際上にはもう少し説明のいる事実だ。純粋に現在及未来の衛生問題として。
ターニャ・イワノヴナはレーニングラードのマリンスキー劇場の第一舞踊手と結婚した。美男の良人につかまって数番の初等トウダンスと両脚を床の上で一直線に展くことをおそわった時 ターニャ・イワノヴナは自分の姙娠したことを知った。踊りての良人は不機嫌に
「僕あ赤坊なんぞいらないよ」
と云った。ターニャ・イワノヴナは 人工流産の手術を受けた。二十五留払って、三日病院の人工流産部に横わって居る筈であった。三日は三月になった。四ヵ月目に、二十二歳のターニャ・イワノヴナが髪の毛と食慾と永久に健康な子宮を失って家に帰った時、彼女は更に一つのものを自分が失ったのを知った。彼女の良人はもうタマーラ・イワノヴナの良人ではなかった。マリンスキーの舞踊手でどこか他の強靭な子宮の配偶者であった。――
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――こんな例、人工流産の失敗する例は沢山ありますか
――パーセントは少いがあることはあります。一度の人工流産は大したことはない。三度 四度、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の女がやるようにしては全然害があります。
――貴方の知っていらっしゃる場合で一番多くしたというのは何度です?
――××病院でこんな例があった。六度人工流産をした女が、七度目の子供を自然に産みたいと思った。ところがもう六度の手術で子宮の組織がすっかり破壊されてしまって居たので、胎児の発育を持ちこたえられず子宮破裂で その女は死んでしまった。
[#ここで字下げ終わり]
人工流産を小さい番号札と最大限二十五―三十留までの金と三日の臥床とにだけ圧搾して考えるСССР的無智を啓蒙するために映画「第三メシチャンスカヤ街の恋」はどの程度に役立ったであろうか。第三メシチャンスカヤ街は労働者町だ。
良人とその友人の子をもった女主人公は、掌に握って居た人工流産番号札をすてて 母になるために去った。
そういう瞬間にもセマシコフの名に於ける病院の人工流産科の第七十五台目の寝台に新しい患者が横りつつあるであろう。
そして 彼女の三日と三月との間にリスクを犯すであろう。
日本女の胆嚢は計らず一つの問題を、СССРの社会衛生に向ってなげ与えた。仮令先について居るたまが金むくであろうとも、二米のゴム管を十二指腸へ送り込む芸当は優美にして 快適な至芸ではない。自分は一生の間に屡々《しばしば》此は繰りかえしたくないことだと思った。そこで、眉毛が目の三倍位長い医者に質問した。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――私は自分の胆嚢が如何那原因ではれたのだか興味がある。ゾンドが美味いものでないのが分ったから、注意して、又嚥まずにすむようにしたいと思いますが
[#ここで字下げ終わり]
彼の答えは斯うであった。
[#ここから2字下げ]
貴方は モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]でずっとストロー※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ヤで食事をして居たと云いましたね。それが原因と見られる。ストロー※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ヤは大体よくない。不潔だし材料を注意しない、時には腐敗したものも使うからこれからもうストロー※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ヤで食事することは禁物です、
[#ここで字下げ終わり]
是は寧ろ日本字で書くより ロシア字になおして、衛生大臣セマシコフに見せたい答だ。
公平に云えば 我が呪われた胆嚢は2/10だけ既に日本トキョーに居たうちにわるかった。然し胆汁のはけ口を逆行してそのもち主を呻らせる炎症をおこすバイキンは、СССРモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]市の食堂が一ヵ年間補てん提供したのは事実だ。
日本女の胆嚢に入ったバイキンは、あらゆる瞬間に、ルバシカに包まれたモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の市民《グラジュダニン》の胃にも侵入しつつある。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]全住民の幾割が衛生的な家庭の食事にありついて居るであろうか。
「女性が台所にとじこもって居る間、社会革命は完成されないであろう」
СССРは過度姙娠、育児の負担から女性を解放すると同時に、戸毎の大小の厨炉の前から女を解こうとした。集会に於て勧告するであろう
「我等新社会*の一市民は、各自の精力を最も有益に利用することを学ばなければならない。二杯のスープと二皿のカツレツの為に主婦が半日石油コンロの前に立って居なければならないという必要がどこにあろうか」
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]夕刊新聞所載 ストロー※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ヤの閉店時間 モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]のストロー※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ヤが僅にセントルで十二時まであるだけであとは八九時にしめてしまうため夜勤の労働者が熱い обед をたべられない
モスソヴェートは附近の労働状態を考慮して閉店時間の延長を許可するであろう。
対外文化協会発行のパンフレットは 新しい共同厨房の蒸気釜の写真をのせる。
「食う準備」は人類が獣の皮を腰に巻きつけて棍棒と石でマンモスと戦った時代からの問題であった。
スパルタ以来最も台所から解放された市民はモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]と New York に発見されるであろう。最後にして最大の問題はこの社会的釜から体内に送られる不用なるバイキンを如何にして撲滅するかという点だ。
○
薄緑色の壁。紅いシクラメンの鉢の載って居る円卓子がある。窓枠が古いので一月の日光とともに室内を空気が流れた。シクラメンの花がゆれるのでそれがわかる。鉢の側――右
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