一九二九年一月――二月
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)三和土《たたき》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)この毛布二十四|留《ルーブル》したんだって
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]
*:空白 底本で「空白」としている箇所
(例)*月号第○頁
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二月
日曜、二十日
朝のうち、婦人公論新年号、新聞の切りぬきなどをよんだ。東京に於る、始めての陪審裁判の記事非常に興味あり。同時に陪審員裁判長の応答、その他一種の好意を感じた。紋付に赤靴ばきの陪審員の正直な熱心さが感じられる 例えばこんな質問のうちに。
マッチから指紋をとろうとしなかったか 指紋をとることを思いつかなかったか
又煙はどっちへ流れたか
素人らしき熱心さ、若々しさ。これはよい心持だ。
○新恋愛探訪
颯爽として生活力的な恋愛一つもなし。
三つの記事 各々に対する記者の態度が反射して居て面白い。[#この行は枠囲み]
山川さんの時評、愉快。近頃日本林氏専売コロンタイ式恋愛に対する彼女の批評は全く正当だ。この論文は当然いつか誰かによって書かれるべきものであった。
ジャーナリズムの頭のわるさ或は誠意のなさは、斯の如き恋愛論と、石原純の記事へ真杉氏の恋愛的人道的認識との間にある間隔に対して何の判断をも与えて居ない。
○三時頃、少しうとうとして居たらYが来た。昼間の光でYの顔を見るのは珍しい。故に嬉しい。一つ芸当をして見せた。自分一人で半身起き上って、右肱をついて左手で傍の卓子からものをとるという芸当。そしたら、始めて彼方の隅に一つ白い布のかかった卓子のあるのが見えた。
十九日 土
ひどい風だ。雪が降り出した。――臥《ね》たきりの自分には何もわからない。ただ目の前に日光のささぬ水色の壁があるばかり。ファイエルマン退院をするので、噪いで аптека へ買物に出かける話だ。
一番若い医者が来た。椅子にかけ乍ら
――どうですか
――ありがとう 相変らず
――昨日は 我々 随分頭を振った
――何故?
――悪いものが出た、永く臥てなくちゃなりませんよ
――というと? 重いというわけ?
――石はない。胆嚢炎らしいです
いよいよ病名がわかった。が、若い医者が好意的に話してくれたので、主治医は何にも説明しない。「よらしむべし」という風だ。
○夜、始めて独りで横わり非常に安静だ。然し 室にはまだファイエルマンの臥て居た寝台がある。静かな夜の中で、そこから彼女の寝息が聴えて来るような気がした。
この自覚から林町の家のことを偲い出し、憂鬱を感じた。さぞ 家じゅうに英男の若々しき二十一歳の息、跫音、笑声ののこりが漂って居ることであろう。そこに住む。やさしくないことだ。
○日
Gが来た。
――窓のそと どんな景色? 私、まだ知らないのよ
――云ったげましょう、樹が三本、隣の建物
――それっきり?
――それっきり。
「知られざる日本」という自著をくれた。紺と黄との配色。自動車、蓑笠の人物、工場の煙突、それらの上空には飛行機のとんで居る模様だ。日本東京の或ものを捕えて居る。
月曜
ニャーニカが二人で私のシーツをとりかえ乍らの話。
――この毛布二十四|留《ルーブル》したんだって
――十六留でいい厚いのがあるよ
――だってアレキサンドラ・――カヤがそう云ったもの
――十留位足駄はいて云ってるんだろう、あのひとそういうことがすきだ
アレクサンドラ云々というはここの女監督だ
それからターニャが私に着せる麻の上衣をふるい乍ら
――此那のにいくら出すんだろう
そこで私が云った。
――三十留
――二十七留 足駄はいて?
みんなで笑った。
私の白いものすべて枕かけにも 寝間着にも8という番号が書いてある。即ち私はユリコ チュージョーではなくてただの8なのだ。
○入院した第一夜 夜十二時まで眠ったがあと眼がさめ、どうしても寝つづけることが出来なかった。
隣の床で同室患者が寝息をたてて居る。
口がかわく。手をのばして椅子の上においてあるミカンをとり、汁を吸う。五分もすると又干く。今度は鉱泉をのむ。暗い室内から、扉の上の硝子をとおして廊下の天井が燈を反射して居るのが見える。反射する明りは 私の顔に届くほどきつくはない。森とした夜中だ。
暫くすると、どこかで病人が呻り出した。声の見当は廊下を越して左側の室から洩れる。
重い病人の苦しむ時刻というものは大抵定って居る。午前一時二時三時。地球の引力の関係。家《や》のむねが三寸下るうしの刻。アンドレーフの小説に深夜の病院を書いたのがあった。それ等を切々に考え乍ら呻り声をきく、自分は猶ミカンの汁と鉱泉とをちゃんぽんにのんだ。
二日目の夜、やはり午前一時近く目をさました。同室患者の寝息――時計の音――廊下の天井をてらすぼんやりした明るさ――十数年前の夏東京の大学病院小児科の隔離室に暮したことがあった。英男が三つで疫痢を病って入院して居た。自分は十二位だった。母と病室に泊った。深夜氷嚢をかえに行くのが自分の役であった。
廊下は長かった。夏の夜に電燈があつくるしく赤っぽかった。その下をずっと自分の踵からあまる草履の音だけをきいて通り、右側の薄暗い室に入る。つめたい空気が顔をうった。三和土《たたき》の段を三つ下り、三和土の床を歩いて三和土の湯槽のように大きなものの中に氷がおがくずに埋ってあった。三和土の床も、三和土の湯槽のようなものも、みんな湿って居た。ぬれて電燈を小さくてりかえした。私は一面の夜と、無人な空気と、湿りを巨大に厳粛に自分の小さい存在の周囲に感じた。
私はひとりでにいそぐ。いそいで氷を破り、氷を破る音が濡れた三和土の床や天井に大きく反響して廊下へ響くのをきく。この静止のなかに動くのは自分だけだというのは異様な感じであった。……――この時廊下をいそいで歩く二三人の跫音がした。緊張し 眠気のさめた跫音だ。自分はおや誰か死んだなと思った。
翌朝同室患者のファイエルマンが彼女の一日分五十|瓦《グラム》のパンの端から一切をきり乍ら
――あなた我々の隣の病人の呻るのをききましたか
と云った。
――一昨夜の晩は聴えた。でも昨夜は呻らなかったようです
――一昨日は僧侶がよばれたんですよ
最後の塗油式に呼んだということであろう。
――そんなにわるいの
――ふうむ、そして昨夜死にました
あの跫音はそれであったか。変な心持がした。
彼女は
――ここはまだよい。重い病人は一人の室へ入れられるから
と云った。
――目の前に散々苦しんで死んだ人間が寝て居て御覧なさい、随分いやな気持だ
五年糖尿病を病って六度あっちこっちの病院へ入って歩いて居るうちに、そういう経験もしたらしい。
○内科婦人患者だけ二十七人居る。一室十二人詰のところ一ヵ月四十五円。
二人室 百五十留
一人 二百五十留
ロシアの病院の特徴は、看護婦がわりに 乳母《ニャーニカ》というものがあってそれが一切直接身の周りのことはしてくれる点にある。看護婦はチラホラしか居ない。ニャーニカとフェルシンニッツアの間に昔はセネラーが居た。私の枕元の卓子の上に真鍮の鈴がある。ガクガクになった首をガーゼで巻いてある。今は金がない。※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ンドが一本で五人の患者にまわす。
私の呪われたる胆嚢にのって居る湯たんぷが冷えたとする。私はそのベルをとってならす。白い上っぱりに白いプラトークをかぶったニャーニカが来る。私はそれに毛布の下から引ずり出した湯たんぷを渡せばよいのだ。
ニャーニカの労働は十二時間――午前八時―午後八時、これが二人ずつ四組あって、当直もするのだ。月給四十留(ホテルのゴルニーチナヤは四十二留五十|哥《カペイカ》だ)
50[#「50」は縦中横]人に対して一人のフェルシンニッツア、体温計、その中に一本いつも三度低いのをもってかけ廻る。
ニャーニカは大体親切だ。けれども、彼女達の話すアクセントを一度きいたら 彼女達の踵《カカト》にはどんなに田舎の泥がしみ込んで居るか。敏|捷《ショー》とか 医学的教養とかからはどんなに遠い婆さん達であるかを感じるだろう。
故に、病院へ入ってもモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に於て、病人は決して聖ルカに於てのように日常生活のデテールまでを人まかせにしてしまった安らかな快感は味えない。ニャーニカ達は、私が毎朝茶に牛乳を入れてのむという習慣を決して記憶しない。彼女等の頭は恒に新しい。
――そこの卓子に牛乳の瓶があるでしょう。コップへ半分ばかり温めて頂戴 私はお茶を牛乳とのむんだから――
お茶は戸棚に入ってる
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]では まだ、身動きの出来ぬ病人はよごれて寝て居ても当人やニャーニカの恥辱にはならぬ、寛容があるらしい。午前七時に当直のニャーニカが入って来て手拭の端をぴしょぴしょ濡してくれる。私は五歳の女の子のようにそれで果敢《はか》なく顔を拭いて、手を拭いて、オーデコロンをつけて、日々新たにその卓子の上にある牛乳瓶についての説明をくりかえさなければならないのだ。
病院へ入ってもСССРに於ては自分の意志と茶罐とを失ってはならぬ。病院では朝晩熱湯をくれる。
[#ここから1字下げ]
〔欄外に〕
ロシア人と茶。午後三時茶がわく。シュウイツァールの男がクルシュクールもってそっと歩いて行く。エイチャイピーラの唄=事務所の茶=クベルパルトコンフェレンスのトリビューンにもさじのついた茶のコップの写真が出た。
[#ここで字下げ終わり]
健康な村のニキートや技師マイコフがする通り、患者達も朝は自分の茶を急須につまんで、病院からくれる湯をついで、それがすきなら受皿にあけてゆっくりのむ。
正午十二時に食事が配られ、四時すぎ夕食が配られ、夜は又茶だ。
夕方の六時、シェードのないスタンドの光を直かにてりかえす天井を眺めつつ口をあいて私はYにスープをやしなって貰って居る。
わきの寝台に腰をかけ、前へ引きよせた椅子の上に新聞をひろげ、バター、キューリ、ゆで卵子二つ、茶でファイエルマンが夕飯をたべる。彼女は昼の残りの肉を ナイフでたたき乍ら
――この肉上げましょうか、食べたくなる程美味しい肉ですよ 全くさ
それでも三週間キャベジの煮たのだけたべてやっと百グラムの牛肉が食べられるようになったのだから、彼女はその肉も結局は食べ終る。
歩き乍ら 青いすっぱい林檎を皮ごとたべる。糸抜細工《ドロンワーク》を始めた。
Yが
――このスタンドはいいがどうしてかさがないんでしょうね、病院らしくもない
と云った。
――それがソヴェート式
廊下では 左右の長椅子を中心としてそろそろ歩ける女の患者たちが集る。揃ってお仕着せの薄灰色のガウンをかき合わせ、それだけは病《わずら》わぬ舌によって空気を震わす盛な声が廊下に充満する。
Yは
「ここの廊下、一寸養老院の感じだよ」と囁いた。
Y、牛乳の空びんやキセリの鍋を白いサルフェートチカにつつんで八時頃かえる。
ファイエルマンは新聞を巻いて上手にスタンドの明りを覆うた。自分はそれを見、ロシア人の持つ生活上の伸縮性を強く感じた。現在二十歳以上のロシア人はすべて革命、飢饉時代を経て生きて来た。生活に必要な条件というものがある。それの全然欠けた日々を潜って如何にして生きるかを習得して来たわけだ。
この民衆の強みはСССРの底石だ。
骨格逞しい丈夫な民衆の上にあらゆる不如意、不潔、消耗がある。然し彼等はその底をくぐって生きぬくであろう。
民衆のこの生活力の上に立つ限りСССРはアメリカの僧侶が希望する以上に強靭な存在であるのだ。
ファイエルマンは明りを暗くすると、寝台の横のトリムボチカをあけ乍ら 私に云った。
――私のす
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