うな無目的で素朴な生活力の氾濫の描出に終りました。プロレタリア文学が、主張した人間性の解放は、社会的現実である階級の解放ともなるものとして理解されていました。したがって人間性の解放とその自由の要求には、過程として当然さまざまの社会的相剋、封建性とのさまざまのたたかいをさけがたいものとしていたし、そのたたかいを終極の勝利に導くためには、一見、人間性の解放とは逆のように見える集団の規則、献身、克己をさえ必要と理解していました。それらの、歴史の過程が私たちの現実に課す制約は、一九三三年以後すべて「セクト的な強制」というふうに感じられそれを公言することが流行となり、ヒューマニズムという旗は、無軌道な人間感情の氾濫という安易な線に沿ってひらめいたのでありました。日本の近代精神において、ヒューマニズムがいわれる場合、ほとんど常に、それが感性的な面のみの跳梁に終るという現象は、それ自体日本の近代精神の非近代性を語っていると思います。日本の精神は市民社会を知らず、自分一個の存在の社会的脊骨を自身のうちに実感するところまで成熟していません。少年が最初の自我を自分の肉体の上に発見するように、未熟な近代日本
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