の親父から罵倒されたという物語があります。どうせ私生子を生むような女は、と悪態をつかれることなどを聞いていた花村が、主人公の私生子であるということについて大人からうけうりの偏見を持ったわけであり、その動機は、主人公の少年の卑屈から出たうそでした。汚辱、羞恥とは自己を摘発することだと第一回にいわれているほんとうに痛烈なモティーヴが作者にありますならば、どうして作者は、花村が、私生子であるということで自分をいじめ、自分が傷《きずつ》けられたとき、花村にそう云わせた動機は主人公の少年によってつくられていたこと、そして、私生子そのものが羞辱ではなくて、うそをちょいとつくその卑屈さこそ、人間性探究というテーマの上から見のがしがたい穢辱、羞恥であるということにぶつからなかったでしょう。作者の心に真実一貫したモティーヴであるなら、こういうモメントこそ作品の核をなすものであることが理解され、くっきり痛いように浮んでくるはずです。
私たちが作品を書いている時、ある一つの心理を現象的にすらすらと書いて、さて、汚辱、羞恥とは、と改めて考えなおすというようなことがあれば、汚辱といい羞恥といい、言葉そのものの響きは切なるものでも、作者の現実でその苦しみは、浅いものであり、原稿紙の上に書かれているものにすぎないということを痛切に実感すると思う。ですから一部の批評は高見順の「わが胸の底のここには」には頭が下るといっているけれども、モティーヴが腹にすわっていない、ふらふらした作品です。書こうとするものの本質がつかまえられきっていないのです。
今日たくさんの人たちが、のほほんとして「あの時はあの時のこと」と白を切っているような文学の態度を示しています。それにたいする一つの抗議として高見さんの小説の態度は買われるのでしょうし、作者として敏感にそういう要求をもつ今日のインテリゲンツィアの心理に反映して着手された作品でしょう。しかし自己|剔抉《てっけつ》ということも主観の枠の中でされると、枠のひずんだ[#「ひずんだ」に傍点]とおりにひずむ[#「ひずむ」に傍点]しかないという意味深い一つの例だと思います。今日の歴史に生きるには、それに先行する時代から受けた苦しみそのものの中に沈潜して、そこから自分たちのこれからの新しい発展を辿りださねばならないという気持が、広汎にあります。そして、自分たちの経験を発展の母胎と見、それにいちおうは執しようという心持は、民主主義文学のいわれている今日の日本で独特の混乱の源泉となりました。日本文学の伝統の中に近代の意味での自我は確立していなかったのだから、ブルジョア民主主義の段階において、個人個性を確立させ、それを主張することが今日の文学の任務だという理論から、インテリゲンツィアをふくむ全人民の民主的な社会生活への推進という方向へ動かず、むしろそういう社会の潮流に抵抗して、個人をがんこにそういう流から孤立させ、社会歴史から抽象し、「個別経験の特殊性」という心理の主観的なコムプレックスに立てこもって意怙地であることに意味があるとする一つの傾向があります。『近代文学』を中心とする平野謙、荒正人その他の人々に共通な傾向だと思います。
どういう原因が、こういう複雑な心理を生んだのでしょう。私たち日本人の文学を、こんなにもひねこびれたものにしている原因を、はっきり知らなければならないと思います。「個的なもの」に、偏執する人々の心理の原因の一つは、つまり過去十何年もの戦時中、あまり無視され、蹂躙されつくした自分というものを、今こそ擁護し、自分の生きている価値を主張しようと奮いたつ感情であると思います。第二の原因は、そういう心もちがつよいのに比べて、過去の日本の市民精神の欠如から個性と社会とのいきさつを、科学的につっこんで把握する能力が育てられていないために、今日、民主主義文学といわれると、それさえも過去に自分を強制した、その強制の一変形でありそうに感じて、抵抗する心理です。しかし、この心理はいつもけっして、当事者たちによってその動機そのものを率直に示されません。昔のプロレタリア文学運動にたいする政治的偏向の批判とか、文学における世界観の課題にたいする過小評価、作家論の場合は平野謙の小林多喜二にたいする批評などのようなまったく本質からはずれた形をとります。そして、一貫してプロレタリア文学運動に指導的な影響をもった日本の前衛党にたいする反撥・自己主張の方向を暗示していることが目だちます。これは、じつに私たちにさまざまの感想をよびさまします。日本のインテリゲンツィアにはなんと自主の実感がかけているのでしょう。日本文学の精神には、なんと、自分から自分をぬけ出てゆく能動力が萎《な》えているのでしょう。文学にたずさわる人々をこめた人民感情そのものの中に、自主
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