的な清らかさ、などを豊島さんのシンボリズムではたして表現しきれるものでしょうか。
 それから最後に、今日一種の魅力になっている傾向に、懐疑的な、自分にたいするサディスティックな自虐的な追求をとおして、人間性の再確認と正義の建設への意企を表現しようとする試みがされています。そういうグループの作家の語彙《ごい》には非常に「苦悩」とか「汚辱」とかいう言葉が多くつかわれます。その代表的なのが、高見順の「わが胸の底のここには」という『新潮』に連載されている作品です。文学好きというような人には、そうとう読まれていると思う。
 この「わが胸の底のここには」という題は、藤村の「我が胸の底のここには言い難き秘事住めり」という文句で始まっている詩からとられた題だそうです。この小説はまだ四回しか出ていない。どういうふうになって行くのか今からはわからないけれども、幼年時代のことから書きはじめられて作者の社会的な成長を書こうとしているものです。だいたい、人間の生きかたというものを表から明るくばかり見てゆくものがリアリスティックな文学ではありません。群像の浮彫に、深い明暗があるとおり、立体的に把えられるべきものだが、「わが胸の底のここには」は、いわば鋳ものの裏の方からそのへこみばかりを辿って人間性のもり上りを見てゆこうとしているような作品に思えます。その作品の第一回の三分の一ぐらいは、いかにもこの作者らしいメロディーでその文章は身をよじり、魂の声を訴えようとヴァイオリンの絃のごとき音を立てている。その部分では高見順はまるで縷々《るる》として耳をつらぬき、心をつらぬかずんば、というような密度のきつい表現をしている。それはいくつもの響の調和された、幅のある音でなくただ一本のヴァイオリンの絃が綿々として身をよじっているんです。そういうふうな身のよじりで、自分の四十歳までの生活は幼年時代の汚辱の中につながっているというように、非常に悲傷めいた表現が強く書かれている。
 ところがこの作品は第二回目になると、まるで子供時代の昔語りになってゆきました。書かれるモティーヴが強烈でなくなって、楽な昔語りになってしまった。第一回目の冒頭にメロディアスな技術で奏ではじめた、わが汚辱をえぐりあばくという文学の身がまえがくずれてしまっています。そうして、第三回目には、第一回目冒頭でかなでられたメロディーが作者の心に甦ってきた。そして自分の書く態度について反省をしている。つまり四十歳の人間が老いるということは何だ。何事であろう。自分はもう生きる力をどこかへなくしてしまったのだろうか。もう一度生きるためにもこれを書かなければならない、と書いた第一回のこころもちが第三回目になって思い出されたわけです。
 芸術的老衰ということが、書けないということでなく、あまりにすらすら書けるということにも老衰があるということを、この作者は第三回にいっている。そして、自分がすらすら調子よく書きはじめているということ、これはなんだろうか、と反省をしている。第一回で、羞恥ということはわれとわが身を摘発することだ、と書きはじめている。その「ぱッと顔の赤らむ直截な感情である」羞恥とはなんであろうか、ということをこの作者は生々しい感情から扱いえなくて中村光夫さんはこういうふうに論じている、誰それは、というふうに、と羞恥論をやっています。羞恥という言葉は、この作品のなかにどっさり出るけれども、作品の現実の中ではじつはけっして敏感に生きていません。たとえば第二回のところではこの感情を中心的に扱っていて、一中に入ろうとした時、自分が私生子であるということを知ってたいへん苦しみ、うちへかえって嫌だ嫌だと気狂のように大荒れに荒れる、その絶望の心を書いている。そのきっかけは花村という少年が「君一中に入ったのだって」といったことからはじまります。金がないから一中に入ったって困るだろうということと思った。ところが、一中のようなちゃんとした学校では私生子のようなものは入れないということをその子供は親から聞かされていたから、そんな意味でいったのでした。主人公である私生子の少年はそのために非常に苦しんで大愁嘆場が演じられるわけです。そういうふうな物語りが第二回に語られていて作者は、これらをすべて痛めつけられた自分の記録として語っています。第三回目に、すらすらと羞恥とはいったいなんであろうか、と作者はいっているのですが、読者とすれば、この作者はそとを見てそれを研究する必要はないのに、と感じるんです。なぜなら、主人公である少年が自分で溝にはまって着物をたいへんよごしたとき、それを母親がひどく叱ると、花村という少年が自分を溝へつきおとして、着物が汚れたと嘘をつき、花村に無実のつみをきせます。すると、花村の家に母親がどなりこんで、かえって花村
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