、その最も推進的な部分は勤労階級の文学によって代表されなければならないのです。『黄蜂』の「暗い絵」も「町工場」も今日の民主主義文学の幅のなかにこめられて前進するのですが、質において、もっともっとどっさりの「町工場」のような作品が出てくるようにつとめなければならないわけです。
今日の民主主義文学の段階で、社会主義的リアリズムの問題は、どう扱われるべきか。これは、この間、ソヴェト同盟から作家シーモノフなどが来たときの座談会で、感じたことですが、みんななにか心にかかるように、ソヴェトの社会主義的リアリズムについて聞くんです。するとシーモノフはソヴェトでは一九二九年以来その創作方法でやってきていると返事します。ああそうですか、と話がなくなってしまう。社会主義的リアリズムといってもそれはその国々によってまた民族的段階によって一つのきまったものをおしつけるわけではない。人民のための文学をつくる、それが社会主義的リアリズムだとシーモノフがいう、わかりきったことで対談が終る。しかしなにか気に残っています。
その気に残っているものが問題なのです。日本で社会主義的リアリズムを取上げましたのは一九三一年の終りから二年ばかりの間でした。ソヴェトの方は一九二九年から五ヵ年計画が始っておりますから、ソヴェトのもっておりました社会情勢と芸術の立場から、プロレタリア・リアリズムからの発展としての社会主義的リアリズムには必然があった。
しかし日本の社会の半封建的なるものが非常に多くて、ブルジョア民主主義のための闘いののこっているところへ、いきなり社会主義的リアリズムといってもなにか肌にあわない感じがあったわけです。その肌に添わないところを、社会科学の立場と文学の立場から綜合的に研究して落ついた結論を出すひまのないうちに一九三二年の春の全文化団体への弾圧があり、社会主義的リアリズム論争は、最もみじめなまたみっともない形で、文学における進歩性と階級性の否定の口実につかわれてしまった。そのまま、ズルズルべったりに今日まで来ています。『新日本文学』第四号の巻頭に、中野重治さんが「批評の人間性」という論文をかいています。民主主義文学の伝統にたいして正当性をかいている平野謙、荒正人氏たちの論説を反駁し、書きぶりは、アクロバットめいているが、衝《つ》く点はたしかについています。こういう本質をもった論文は書か
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