として生き、社会に学び、この作者ぐらい現実の解明力としての勉学の意味も理解していると、いつか、モティーヴそのものの社会性が深まりひろがって、たとえば「町工場」で描かれているような「貧困」そのものにたいしてもおのずから私という主人公と音川という男と二様の勤労者の態度の生れることがつかめ、音川のそれを遺憾とする精神の実感にまでつきぬけてくるのです。
 この「町工場」の内容的な特徴は、徳永さんもふれているとおり文体の上にくっきり出てきてもいます。この文体には一種の気品があります。なぜでしょう。こしらえた気取りは一つもないが、描こうとする一つ一つの対象にたいして、作者の内面的全構成が統一をもってまともにとりくみ、深められるだけ深くひろく考え、眺め、皮相的に反映するのではなく、自分をとおして文学の現実として再現しようとしているから文章に気品を生じています。理性のあかるさからの気品です。昔プロレタリア文学の初期、勤労者の文学といえば、精力あまった荒削り、俺ら働くもの式の力み、ある低さくらさがつきものでした。推薦者徳永さんの前書に、「私は二十年前の若い労働者作家として感慨をもって思いくらべながら、現代の青年労働者作家を読者の前に紹介する」といわれています。ここのところを、もっともっと、客観的に、民主主義文学の問題として説明していただきたかったと思います。「町工場」は小さい作品だし、これから大きい題材とテーマをこなしてゆくには幾多の苦労と修練とがいることは明白だけれども、これが新しい勤労者作家のけっしてわるくない見本であることも事実です。志賀直哉の文体は、日本ブルジョア・リアリズムの終点でした。志賀直哉風の描写のうしろにねてはいられないといって、高見順その他の人々があれこれディフォーメーションを試みましたが、それは現実理解のディフォーメーションを結果したばかりであったことがますますはっきりしてきている今、文学におけるリアリズムは、こういう、せせらぎのようなよごれない姿で、新しくなって、目にもたたないところから流れはじめてきています。
『新日本文学』は、民主主義文学運動を担当するものの責任として、こういうふうな勤労生活からまっすぐ芸術に結びついて、中途を文学青年的よごれにそまない作家をもり立てなければならないと思います。農民そして、じかに画家。工場労働者からじかに作家。民主的革命家そ
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