いでしょう。
またこの四号には、小沢清という人の「町工場」という小説がのりました。徳永さんの推薦で、推薦者は、この作品のよい点とともにおさなさをいっていられます。なるほど、おさない、といえるところはあるかもしれないけれども、それは現実を見る眼、現実を感じる心の粗雑さを意味しているでしょうか。私はそう思いません。町工場につとめる若い勤労者としての主人公をとおして作者が社会を感じている人間としての感覚は、けっして荒っぽくありません。ひとりよがりの幼稚さももっていません。こまやかで苦労を知っていて、しかも卑屈でありません。「町工場」を読んだ人は、誰でもこの作品のさっぱりとして、しかも人間らしいつよさにこころよく感銘されるのですが、この小説も『新日本文学』の収穫として、まじめに検討し、この作者の勤労者として、そして小説を書く人としての大成を期待しなければならないと思います。
この「町工場」の小説としての価値は、私という主人公が勤労生活のうちにあるさまざまの半封建的な、搾取的な細部を感じつつ生きてゆくそのことを、いわゆる、進歩的勤労者の自覚した認識というような観念にてらして描きださず、生きてゆく細目そのもので描きだしているという点です。ひと昔前の勤労者作家には、こういう腰のすわりがなかったと思います。身辺現実を整理するに、なにか道具がいりました。イデオロギーとか社会史観とか、こき出されたそういうものがいった。そういう整理道具なしに日常現実に体ごとはまったまま、それを作品化してゆくだけの力がなかった。足をとられるから、つかまるものがいりました。インテリゲンツィアの場合でみれば、野間宏の「暗い絵」の話のとき、有島武郎や芥川龍之介の文学にふれました、あのとおりです。実感の中にとけて入って、それが社会科学の本はどう書かれているかということにかかわらず、生活と文学そのものの中から、実感をつきつめて、自然、勤労者として正当な、したがって人間らしいテーマの発展を辿っている。
ここが、じつに着目されなくてはならないところです。世界観と実感と二つを対立させて、モティーヴの切実さが世界観などからは出ない、という論議もあったりしているとき、文学の現実で、この「町工場」なんかは、もうその問題をある意味でとび越えた、若いすがすがしい世代が擡頭しかかっていることを実証しているんです。つまり、勤労者
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