向っていず、むしろ自分のいうことにたいする外部からの反応へいつも目が向いているようでさえあります。
 この作者が「暗い絵」で深見進介の自己完成のはげしい欲求と、我執とが妥協することをけっして許さず「科学的操作」で追いつめていったとしたら、主人公の自己完成の道はどんなところに展け、つきだされてゆくでしょうか。興味があります。
 この「暗い絵」には、まだまだどっさりの過剰物がついています。文章の肌もねっとりとして、寝汗のようで、心持よくありません。しかし、作者は、どうもそれを知っているらしいんです。その気味わるいような、ブリューゲルふうの筆致が、作品の世界の、いまだ解決されない憂鬱の姿を最もよくうつすと思って、ああいうふうに書きとおしているらしいのです。
 りっぱな作品ということはむずかしいけれども、民主主義文学が日程にのぼってきているとき、一人のインテリゲンツィアとして、はっきりその課題を自分の精神成長の過程にその言葉において自覚し、苦悩して生きた作品として、やはり無視できないと思います。プロレタリア文学運動の時代、インテリゲンツィアのこの問題は、こういう筋道では文学にとらえられませんでした。プロレタリアの陣営にうつるか、同伴者として存在するか、反動にかたまるか、脱落するか、インテリゲンツィアの行く道は、そういうふうに幾通りかに単純化されていて、たとえば有島武郎にしろ、芥川龍之介にしろ、自身の生死と人民解放運動とを、あんなに深刻にかかりあわせながら、しかし、はっきり知識階級と民主精神の発展の相互関係のテーマで、作品化する力がなかった。彼らに文才がなかったのではなく、日本の社会と文学の意識が、まだ未熟であったからです。野間という作家が「暗い絵」をどういう工合に完成させるか、そしてさらに、その次には、どういうテーマで、どういう筆致を示すか、注目していいと思うのです。
 このほか、新しく作品をかいた作家として阿川弘之という人があります。『世界』へ「年々歳々」、『新潮』に「霊三題」をかいていて、子供っぽい作品という批評もあったようです。けれど、ほんとうに、ただ子供っぽい、といわれるきりのものでしょうか。少くとも私は、「年々歳々」という作品の、ひねくれない、すなおな、おとなしいまともさに好感をもちました。今日の、あくどい、ジャーナリスティックになりきった、ごみっぽい作品の間に、
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