の親父から罵倒されたという物語があります。どうせ私生子を生むような女は、と悪態をつかれることなどを聞いていた花村が、主人公の私生子であるということについて大人からうけうりの偏見を持ったわけであり、その動機は、主人公の少年の卑屈から出たうそでした。汚辱、羞恥とは自己を摘発することだと第一回にいわれているほんとうに痛烈なモティーヴが作者にありますならば、どうして作者は、花村が、私生子であるということで自分をいじめ、自分が傷《きずつ》けられたとき、花村にそう云わせた動機は主人公の少年によってつくられていたこと、そして、私生子そのものが羞辱ではなくて、うそをちょいとつくその卑屈さこそ、人間性探究というテーマの上から見のがしがたい穢辱、羞恥であるということにぶつからなかったでしょう。作者の心に真実一貫したモティーヴであるなら、こういうモメントこそ作品の核をなすものであることが理解され、くっきり痛いように浮んでくるはずです。
私たちが作品を書いている時、ある一つの心理を現象的にすらすらと書いて、さて、汚辱、羞恥とは、と改めて考えなおすというようなことがあれば、汚辱といい羞恥といい、言葉そのものの響きは切なるものでも、作者の現実でその苦しみは、浅いものであり、原稿紙の上に書かれているものにすぎないということを痛切に実感すると思う。ですから一部の批評は高見順の「わが胸の底のここには」には頭が下るといっているけれども、モティーヴが腹にすわっていない、ふらふらした作品です。書こうとするものの本質がつかまえられきっていないのです。
今日たくさんの人たちが、のほほんとして「あの時はあの時のこと」と白を切っているような文学の態度を示しています。それにたいする一つの抗議として高見さんの小説の態度は買われるのでしょうし、作者として敏感にそういう要求をもつ今日のインテリゲンツィアの心理に反映して着手された作品でしょう。しかし自己|剔抉《てっけつ》ということも主観の枠の中でされると、枠のひずんだ[#「ひずんだ」に傍点]とおりにひずむ[#「ひずむ」に傍点]しかないという意味深い一つの例だと思います。今日の歴史に生きるには、それに先行する時代から受けた苦しみそのものの中に沈潜して、そこから自分たちのこれからの新しい発展を辿りださねばならないという気持が、広汎にあります。そして、自分たちの経験を発展の
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