てきた。そして自分の書く態度について反省をしている。つまり四十歳の人間が老いるということは何だ。何事であろう。自分はもう生きる力をどこかへなくしてしまったのだろうか。もう一度生きるためにもこれを書かなければならない、と書いた第一回のこころもちが第三回目になって思い出されたわけです。
 芸術的老衰ということが、書けないということでなく、あまりにすらすら書けるということにも老衰があるということを、この作者は第三回にいっている。そして、自分がすらすら調子よく書きはじめているということ、これはなんだろうか、と反省をしている。第一回で、羞恥ということはわれとわが身を摘発することだ、と書きはじめている。その「ぱッと顔の赤らむ直截な感情である」羞恥とはなんであろうか、ということをこの作者は生々しい感情から扱いえなくて中村光夫さんはこういうふうに論じている、誰それは、というふうに、と羞恥論をやっています。羞恥という言葉は、この作品のなかにどっさり出るけれども、作品の現実の中ではじつはけっして敏感に生きていません。たとえば第二回のところではこの感情を中心的に扱っていて、一中に入ろうとした時、自分が私生子であるということを知ってたいへん苦しみ、うちへかえって嫌だ嫌だと気狂のように大荒れに荒れる、その絶望の心を書いている。そのきっかけは花村という少年が「君一中に入ったのだって」といったことからはじまります。金がないから一中に入ったって困るだろうということと思った。ところが、一中のようなちゃんとした学校では私生子のようなものは入れないということをその子供は親から聞かされていたから、そんな意味でいったのでした。主人公である私生子の少年はそのために非常に苦しんで大愁嘆場が演じられるわけです。そういうふうな物語りが第二回に語られていて作者は、これらをすべて痛めつけられた自分の記録として語っています。第三回目に、すらすらと羞恥とはいったいなんであろうか、と作者はいっているのですが、読者とすれば、この作者はそとを見てそれを研究する必要はないのに、と感じるんです。なぜなら、主人公である少年が自分で溝にはまって着物をたいへんよごしたとき、それを母親がひどく叱ると、花村という少年が自分を溝へつきおとして、着物が汚れたと嘘をつき、花村に無実のつみをきせます。すると、花村の家に母親がどなりこんで、かえって花村
前へ 次へ
全29ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング