て感じる責任という点は抹殺して、主人公の卑劣さ、劣等ささえ、外部の力のせいであるという他力本願の扱いかたです。これは、過去の文学において、個人の確立がされていなかったことのいっそう複雑にされた反映ではないでしょうか。
 芸術というものはいつも自分からぬけ出てゆこうとするもの――自己の発展を求めるものとしてあるべきだと思います。悪循環の下に居直ったように、俺が悪いんじゃない、あの時はあれでしようがなかったのだ、というような人生態度は芸術的に人間的に低俗で、長いものにはまかれろ式なものであり、近代文学の本質的な意欲のないものと思います。
 一方にはまた、戦争中べつにいきり立ちもしなかったけれども、社会生活と個人の身の上におこる起伏を歴史的現実としてはっきり把握せず、ただ自然主義風に、世の移り変りとして見ている態度の作家と作品があります。宇野浩二の「浮沈」などを代表として。
 さらに昨今の特徴として目立つ傾向はデカダニズム、またはエロティシズムです。織田作之助、舟橋聖一、北原武夫、坂口安吾その他の人々の作品があります。
 個々の作家についてみればそれぞれ異った作風、デカダンスの解釈とエロティシズムへの態度があるけれども、総体としてみて、今日、新しい人間性の確立がいわれている中で、デカダンス、エロティシズムの文学が流行していることについては注目の必要があると思います。
 日本文学におけるデカダニズム、エロティシズムは、悲劇的な系譜をもっているといえないでしょうか。ヨーロッパの近代文学におけるデカダンス、エロティシズムは、つねに、小市民的町人的モラルにたいする反抗として現われました。日本の近代文学におけるデカダンスやエロティシズムは、封建的な形式的道義・習俗にたいする人間性の叛乱としてあらわれたものでした。古い例でいえば、徳川末期の武家権力の崩壊期に、経済的実力をもってきた町人階級が、士農工商の封建身分制にたいする反抗として遊里という治外法権地域をつくり、馬琴の文学にたいして、京伝らの文学をもった場合にもこのことが見られました。町人文学と劇、浮世絵は、封建の身分制から政治的に解放され得なかった人間性が、金の前には身分なしの人身売買の世界で悲しくも主張されたわけでした。婦女奴隷の上に悲しくも粉飾された町人の自由と人間性との表示でした。
 明治四十年代の荷風のデカダニズムはさきに
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