が当選したことは、その作家一人の問題ではなくて、民論が一方で坂口安吾氏の文学を繁昌させながらも他の一方ではやはり真面目に今日の社会の矛盾について考えており、その解決をもとめており、人民を幸福にする可能をもつ民主主義を欲しているという事実を雄弁に語るものでした。
 さて大掴みに注目されるこれらの三つの現象は、本年度にどう展開されてゆくでしょうか。
 これまでは文学の問題は文学の枠の中からだけとやかくいわれました。しかしこの段階は誰の目にもはっきり過去のものとしてうつっていると思います。なぜなら以上の三つの問題のどの一つをとってみても、ただ小説の問題とか詩の問題とかにかぎってその狭い地盤の上で発生している現象ではありません。どれもこれも、日本の社会が全体として今日当面しているいろいろの事情から湧いている現象の一つとしての文学現象であるといえます。
 前年度に見られた現象がこういう本質のものであるとするならば、一九四八年度における文学の諸問題は文学という分野の特殊な性質をたもちながらも、たしかに一九四八年度の日本の民主化の歴史がどうすすむかという事情と一致した歩調で、いくらか社会現象よりおくれながら働いてゆくものだと思います。つまり日本の大多数の人がどのように具体的に自分たちの民主的な毎日を確保してゆくために努力するかということときっちり結びついています。
 こう見てくると実に面白いことがあります。それはもう前年度の文学現象の検討の中に、自ら現代文学の重要な発展の可能性が示されているということです。前年度の回顧の中の第一の分類に属する丹羽文雄氏が「私は小説家である」といういせい[#「いせい」に傍点]のいい論文で、社会小説を主張して私小説から脱却しようとする今日の潮流に合していますが、一社会人として社会の進歩の歴史に対して責任を負わない客観主義に立つ社会小説というものは、人間一人一人の自覚と自主が確立される社会を建設してゆこうとする民主的な方向と一致しないものであることは、明らかに理解されます。作者の社会人としての感覚、歴史に対する積極的な参与を自覚しない客観主義は、いわば十九世紀の自然主義のぬりかえにすぎず、社会を客観的に見てあらゆる社会階層の現実とその発展を描破しようとする民主主義文学でないことは明瞭です。
 石川達三、林房雄氏その他の戦争協力者が民主化の低迷に乗じての
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