り元気にしゃべった。頬を上気させ、しかし手は行儀よく炬燵布団の下に入れたまま。
「そんなこと――嘘ずら!」
「誰が出すもんか。――誰が云ったの?」
「坂田が来たんだって」
「ふーん」
女工さんたちが幹事をしている女子青年団ががっちりしているので、町会は、下諏訪町にあるもぐりの小新聞の主筆をつかって、組織がえをすれば年に百五十円とか補助金を出すと持ち込んで来ているのだそうだった。
「わたし達が役員に当選したら、先の女子青年団長が泣いてやめてしまったんです。」
「何故泣いたんです?」
「え? 工場へなんぞ出る人と一緒にされてはたまらないんだって」
女工さんはみんな眼を輝やかせ、凝《じ》っと胸を張って坐り、仲間の一人が何か云うとそれを注意ぶかく聴き、彼女らの云いたい言葉が云われた時にはつよく賛意を示し、愉快そうにこだわりなく笑う。自信のあるみんなの物ごしが自分に感銘を与えた。ソヴェト同盟にいた頃、よく工場で婦人労働者たちの間に交り、喋った。そこの若い婦人労働者たちが示したと同じ性質の注意力、知識慾、階級闘争の実践への吸収力を下諏訪の文学サークルの女工さん達から感じたのであった。彼女らの実質的な明るさは注目に価した。
「働く婦人」はこのサークルでも好評で、重宝ノートなども実際の役に立てられていることが分った。例えば自分の袖口にリボンをつけて切れるのをふせぐという狭い範囲での利用ばかりでなく、一人の女工さんがそんな細工をしていると、ふらりと来かかった他の一人が「何してるの」というようなことになり、「それはこの雑誌に出ているのよ」と「働く婦人」が見せられる。そんな工合に利用されるのであった。サークルからニュースを出すことがそこで決定され、「働く婦人」への通信員も婦人から二人きめられた。
今日は、下諏訪から満州へ出征させられて戦死した兵士の遺骨が到着したので、青年団の連中は停車場前の奉迎に強制動員されたのだそうだ。
「ここへ来る前塩尻が本籍地だって云うのでもう一度そっちで奉迎やって来たずら。骨をわけて持って来て、またこっちで奉迎だ。雪っぷりに傘もささせぬ。新規の羽織台なしずら」
ばかばかしそうな口ぶりで農民の△君が話した。
「どうだ? 女子の方も行ったかね?」
「行くもんで! 話して来ないもん」
それから、みんな砂糖豆をたべながら、サークル員がこしらえた「職場の歌」をうたった。「トラム」の歌もうたった。初め一つの歌を大きい声で揃って歌ったら、外は雪の夜だのに温くなっていい心持になって、もう一つ、もう一つと歌った。しまいに暑がって×子が立って窓をあけた。
その夜十一時すぎの上りで自分は東京へ向った。新宿へ降りたのは省電の初発が出てまだ間のない早朝であった。駅のプラットフォームのまだどこやら寒く重たい軒のかなたに東雲《しののめ》が見えた。東京の夜があけて間もないらしいボロ円タクで走っているうちにだんだん家が気になりだした。角の交番を曲ったところから五十銭だまを握っていて止るとすぐ降り、家までの横丁をいそいで歩いて玄関をあけようとしたら閉っている。戸があいてまだ寝間着《ねまき》の家のものの顔が出るとすぐ訊いた。
「宮本さんは?」
「いらっしゃいます」
それで安心して、のろのろ顔を洗っているところへ宮本が降りて来た。
「どうだった?」
「よかったわ、行って……」
暫く黙っていて、彼はやがて、
「――よく帰って来たね」
と云った。
日本プロレタリア作家同盟は三月十五・六・七と三日間にわたって第五回大会を開くことになっていた。常任中央委員会から出される報告の一部として婦人委員会の報告、議案が書かれなければならず、その執筆者は、窪川いね子と自分とに決定されていた。婦人委員会は、作家同盟内の婦人作家の世界観と技術とを高め、優秀なプロレタリア婦人作家として成長するために役立てるばかりでなく、作家同盟が一九三一年からの著しい文学活動の発展として拡大したサークル活動に独自的な積極性で参加し、企業・農村における勤労婦人の文学的自発性を鼓舞・指導し、プロレタリア文学の影響のもとに組織する任務をもっている。一九二九年の世界経済恐慌以来、日本の農村と都会との勤労婦人は、労働条件の悪化、日常生活の困窮化によって急速なテンポで階級性に目ざめつつある。これらの勤労婦人たちが、解放に向って闘う階級の半身として熱烈に現実生活の細部で行っている闘争の実践、そのいろいろな姿は隈なく日本プロレタリア文学の中に活かされなければならない。同時に、そういう勤労婦人たちが、工場の職場、寄宿舎の片隅、或は村の農家の納戸《なんど》の奥で鉛筆を永い間かかって運びながら丹念に書く通信、小説は、たとえ現在では片々として未熟なものであろうと、大胆にプロレタリア文学の未来の苗床として包括されて行かなければならない。下手であろうとも、それらの文章はまず勤労婦人達が自分たちの毎日の生活を通じて階級的な主張を表現してゆく画期的な端緒であり、それこそ正しい階級の武器としてのプロレタリア文学の萌芽である。そしてまた、それはいつも下手であるとは決していえない。主題は自ら階級的見地で扱われていて、或る場合はひどく上手でさえあるのだ。今日真に創造的な婦人作家を生み得る可能をもった階級は、崩壊に向うブルジョア・インテリゲンチャ層ではない。新社会の建設に向って擡頭するプロレタリア・農民層である。
下諏訪の女工さん達の文学サークルの活動ぶりなどは、この事実を雄弁に語っている。
下諏訪のサークルから三月三十日に帰京し、その次の日であったか自分は下十条へ出かけた。窪川いね子は数年来下十条に住んでいた。三月二十五日頃日本プロレタリア文化連盟の関係で検束された窪川鶴次郎はまだ帰らず、出産がさし迫っているいね子は風邪で動けないという話である。
二階へ登ってゆくと、もう数人作家同盟の婦人作家たちが来ている。いね子は床の間よりに敷いた床の上にどてらを羽織って半身起き上り、顔を見るなり、
「ああ、よく来てくれました」
と云った。
「どうなの?」
「もう大抵いいんだけど、ひどい熱が出ちまった。こないだ雨の中をビシャビシャに濡れて歩いたもんだから……」
「窪川さんは? 出られるの?」
「出られるんじゃないかしら。きっと虱《しらみ》だらけになって来ると思って、ちゃんと着物を用意しているんだけれど……こないだ行って親子丼をたべさせて来た」
姙娠のためにやつれ、また風邪でやつれながら、窪川いね子は持ち前の落着きと微かなユーモアを失わず、おいしいお茶を入れてくれた。
「戸台さんがゆうべから帰らないのよ。どうしちゃったのかしら……」
同志戸台は日本プロレタリア文化連盟で働いている。大体「コップ」に対する官憲の妨害は書記長や同志窪川が捕えられた時に始ったのではなかった。ほとんど今年の始めから、絶えず書記局は襲われ、一人や二人、短期の犠牲者は順ぐりであった。それと闘ってやっと来ていたのだが、昨夜からまた戸台の帰らない事実は皆をやや不安にした。二十八日にブルジョア新聞が発表した「コップ」への暴圧が、逆宣伝的に報道された範囲には止まっていず、沈黙のうちに、陰険に各参加団体内部へと拡大されて行っていることが感じられた。
わたしたちはアンパンをたべながら、婦人委員会の報告、議案の内容について打合わせをした。婦人委員会の一般的任務、組織活動、創作活動について報告し、議案としては、満蒙における日本帝国主義侵略戦争以来激化したファッシズム、社会ファッシズム文化・文学に対する、婦人の独自的抗争の問題、植民地被圧迫民族婦人に向っての積極的働きかけの問題などが課題とされた。
手帳へそれらを箇条書きにしていると、きっと口を結ぶようにしてそれを見ていた窪川いね子が、急に、
「ねえ、私もう、いやんなっちゃった」と云った。「親父がどうも気が変になったらしいのよ」
彼女の父親は大森に住んで電燈会社だかに勤めていた。わたしにはすぐ彼女の心持がわかった。夫は敵に奪われ、出産を目前にひかえている彼女が、そのことにも責任を負ってやらなければならぬ立場にあるのだった。
「……中気なの?」
「早発性痴呆とかいうんじゃないかしら……私の風邪もそのおかげなのよ。帝大病院へつれて行ったんだけれど、電車を降りてずっと歩き出すとそのまんまどこまででも真直に行っちまうんですもの。――傘をひろげると、すぼめることが分らなくなるんですもの……とても骨を折っちゃった」
「会社の方はどのくらい休めるの?」
「今は欠勤だけれども、どうせもう駄目だわ」
「そんなに遊んだことがあるのかしら……」
第一次世界戦争が終り、日本に気違い景気があった頃、彼女の父親は丁度妻を失った時であった。気違い景気のいく分のおこぼれにあずかり、彼も小市民らしい遊蕩をやった。相当ひどくやって、九年の恐慌とともに、その放埒は終結したが、今その不運な成果が現れたという訳なのであった。
「ね、だからマルキシズムは嘘じゃない! こんなことにまでもちゃんと日本資本主義発展と崩壊の過程が現れているんだもの」
わたしがひどく力をこめて素朴に云ったので、いね子も笑い出し、
「全くね!」
と雄大な腹の上の紐を結びなおした。
「わるいことに悪いことが重るって云うけれど、ちゃんとそれだけの客観的或は歴史的理由があるんだものね」
「そうさ! 窪川鶴次郎がもってゆかれたこと、いね子が一人で赤坊を生まなければならないこと、大森で気が変になったこと、みんな一連の問題で根もとはたった一つなんだもの……。がんばろうよ、ね」
組合の仕事をしている人との間では、仕事の関係上、結婚生活が従来の型では行われない場合が多いらしい。プロレタリア文化活動の分野でも、運動が高まるにつれ、家庭生活も当然変化して来て、だんだん夫婦がいつも必ず一つ屋根の下に暮すことは出来ない場合がふえそうだという話が出た。
「一緒に暮せる間、万々遺憾ないように大いに積極的に暮すべきだわね」
「そんなことになると、作家同盟の婦人作家が片っ端から『愛情の問題』の傑作ばかり書いてやりきれなくなっちゃうかもしれないね」
これには思わずみんな笑い出し、云った当人の窪川いね子も床の上に座ったなりハアハアと笑った。笑いながら、この問題はみんなの心につよく刻まれたのである。
二
大会が迫っていること。「働く婦人」の締切期日が来ていること。「婦人之友」に連載していた小説を書かねばならないこと。それ等でわたしは毎日忙しい。宮本もさらにいそがしく、一つの家におりながら、廊下で顔を合わせたりすると、
「どう?」
「どうしたい」
という風な言葉を交した。けやきの木の下にある二階家は活動的な空気でいっぱいである。
四月三日の晩、小林多喜二が来た。そして、中野重治が戸塚署へ連行されたことを話した。作家同盟の事務所できいて来たのだそうだ。
「原泉子は知っているだろうか?」
とわたしがきいた。中野の妻は左翼劇場の女優として働いているのである。
「さあ、どうだろ、まだ知らないんでないか」
小林が特徴のある目つきと言葉つきとで云った。
「電話をかけてやるといいな」
わたしは駒込病院前の、背後から店々の灯かげをうける自働電話で築地小劇場を呼んだ。原泉子はすぐ電話口へ出てきた。てきぱきとした調子で、
「知ってます。××さんの細君が知らしに来てくれた」
と云った。
「今夜、あたし十一時すぎでなくちゃ帰れないんです」
何のために、どの位の予定で中野重治が引致されたのか、それは原泉子にも不明であるらしかった。わたしは電話をきり、動坂の中途で紙袋に入れた飴玉とバットを買って戻った。小林多喜二は元気にしゃべって十時すぎ帰りがけに、玄関の格子の外へ立ったまま、内から彼を見送っているわれわれに向い、
「どうだね、こんな風は」
と、ちょっと肱を張るようなかっこうをして見せた。彼は中折帽子をかぶり、小柄な着流しで、風呂敷包みを下げている。宮本が、
「なかなかいいよ。非常に村役場の書記めいてい
前へ
次へ
全5ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング