一九三二年の春
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)炬燵《こたつ》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)小|卓子《テーブル》の上に

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)「でえろ[#「でえろ」に傍点]というのに」
−−

        一

 三月二十九日の朝、私は塩尻駅前の古風な宿屋で目をさました。雪が降っていた。この辺では、宿屋などは夜じゅう雨戸をしめず、炬燵《こたつ》のある部屋の障子をあけると、もういきなり雪がさかんに降っている内庭が眺められる。松の枝につもる雪を見ながら朝飯をしまって、わたしはたった一つの荷物の小カバンを片手に下げ、外套の襟を高くたてて雪の中を駆けてステーションへ行った。宿屋は駅からそんなに近いのであった。宿屋の主人が差さない傘を手にもってやはり後から駆けて来、汽車が動き出したとき、
「じゃ失敬します、また来て下さい」
と右手にすぼめたままもっている傘をふって挨拶した。この人は宿屋をしているが塩尻町の全農に関係し、作家同盟から出ている文学新聞なども読んでいる。前日塩尻町に
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