内部でさえ特別地帯とされているという事が、実際にはどんな事実を意味するものであるかを知った。また監房内で正座させる規則というものが、いかにブルジョア形式主義による偽善的効果をもつものであるかを知った。
(留置場へは署内のいろいろな警官が頻繁に来る。廊下においてある小|卓子《テーブル》の上に特別なケイ紙が備えつけてあり、そこに時間その他が刷ってある。それへ認印を押しにちょっと顔を出すのである。或るものは監房の方へ顔を向けズーと一通り廊下を歩いて視察した。だが、彼等は、たった今看守がどんなに岨に惨虐を加えたかということは表面何の変りもなく正座しているところから見てとることはしないのだ。形式的見まわりは夜中でも来た。看守は夜中も昼と同じように挙手の礼をし、『二十九名、内女一名です。異常ありません』と報告した。)
四月十一日頃であった。朝九時頃、便所へ行きがけに保護室の角を曲ろうとしたら、第一房の錠が開く音をききつけて、待ちかねていたらしく、今野大力がすっと金網ぎわで立ち上り、
「蔵原がやられた」と囁《ささや》いて坐った。
「いつ?」
「二三日前らしい」
このニュースから受けた印象は震撼的なものであった。帰りしなに、
「ひとりでやられたの?」と訊いて見た。
「そうらしい。しかし分らないよ」
今野の、口の大きい顔は、そういいながら名状出来ない表情である。わたしは蔵原惟人には個人的に会ったことはない。けれども、日本におけるプロレタリア文学運動の発展の歴史と彼の業績とが、切っても切りはなせない関係にあることは、プロレタリア文学について一言でも語るものは一人残らず知っている事実である。日本におけるプロレタリア文学運動の当初から、その当時にあった客観的条件を、マルクス主義芸術理論家としての立場からたゆまず積極的にとりあげ、階級的文化運動を押しすすめて行った彼の努力は普々《なみなみ》ならぬものであった。蔵原惟人自身の芸術理論家としての発展の跡を辿って見ても彼が生活態度そのもので混り気ないマルクス主義者であったことは明らかである。彼は書斎的に、実践とは分裂させてソヴェト同盟のプロレタリア芸術論を日本に翻訳し紹介したのではなかった。解放運動の一環としてのプロレタリア文化運動、芸術運動を、常に革命運動の全体性との関係において実践して行きつつ、客観的現実に対する正しい政治的把握から芸術
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