は黙殺された。
「――ねえ、旦那」
再び元の中年寄の声だ。
「あけてやって下さいよ。洩れちゃいますよ」
「いいからそこへやっちまえよ」
「穢くってそんなことが出来るもんかね。ねえ旦那、お願いします、わたしゃ病気なんですよ」
「――嘘つけ!」
「本当ですよ。見せましょうか。淋病なんですヨ」
看守はやや暫く経ってから、留置場の入口近く置いてある小テーブルの裏から鍵束をとり、ゆっくりと、さっきから頼んでいる保護室ではなく、わざと第二房の戸の方を先にあけた。
留置場の看守は二人一組。午前八時から翌日の午前八時迄二十四時間勤務で、一日交代であった。一時間留置場の内に看守すると、次の一時間は外へ出て休む。交代の時は二人の巡査が互に挙手の礼をし、
「二十九名。二人出ています」
という風に報告し合うのである。
同じ看守の日であった。第二房にいる岨《そわ》という青年が薬を買って貰いたいと看守に要求した。
「すみませんがオリザニンを買わして下さい。ずっと飲んでいたのが切れて困ってるんですから」
その看守は監房の前に立ってチラリと留置場入口の戸についている覗き穴の方を振りかえり、それからこっちを向いてニヤニヤ笑いながら、
「うむ、よし。買ってやる」
といった。
「本当にお願いします。僕はこれからもう二十九日ぐらい蒸されるだろうし、未決へ行かなくちゃならないから脚気になると実際困るんです」
「だから、買ってやるっていってるじゃないか」
東北訛のある発音の低声でその若い看守は答え、一つところに立ってニヤニヤしている。本当に買うのなら、看守は、留置人の番号によって保管している金を出し、小使に命じなければならないのだ。
「――お願いします」
「うむ」
「……この前猿又を頼んだ時にも、あなたは返事ばかりして結局買ってくれなかったじゃないですか。――頼みますよ」
爪先だった大股で入口の覗き穴のところから外の様子を見て、誰も来そうもないとわかると看守はまた落付きはらって、お前の方がとるべき態度をとれば、こっちもきいてやるという意味のことをいった。
「六十日もいて、原籍をいわないじゃないか」
「われわれ共産党員には鉄の規則がある。それは守らなけりゃならないのです。……だが、そんなことはあなたに直接関係ないじゃないですか。買って下さい」
彼は広島で青年同盟の中心的活動をして、東京へ出て間も
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