来て、山口とこそこそ話し、しかも抜け目なく襖一重のこっちの気勢を監視しているのがわかる。連れてゆかれるものと思い、わたしは生卵を二つのんだ。やがて、電話か何かかけに山口が出て行った。わたしは家の者に耳うちして二階へ上らせた。そして若しかすると何かの合図になるかと思い、窓や、電気スタンドの工合を平常と違うようにさせた。山口がすぐ戻って来ると、入れ違いにもう一人のスパイが足音を盗んで二階の階段をのぼって行った。窓も、スタンドも元のとおりにして来たと見え、間もなくまた足音を忍ばして二階から下りて来た。それがすむと山口が、
「じゃ、これから任意出頭という形で、駒込署まで来ていただきます。多分今夜かえれると思いますが……」
 わたしは、ゆっくり服を温い方のに着かえ、外套をも裾の長い方のにとりかえた。家のものと留守をどうするということを話していると、
「あまり話されちゃ困ります」
と云った。
「家のものだもの、話があるのは当りまえですよ」
「――家のものだからいけないんだ」
 ハンケチを二枚持ったら、
「それより、手拭の方が便利でしょう」
と山口が注意した。
「――じゃ行って来るからね、気をつけておいでね。心配しないでいいんだから――」
 その時外はすっかり夜で、細かい雨が降り出していた。寒さの用心にスウェーターを包んだ風呂敷包みをかかえ、傘をさし、もう一人のスパイと人通りのない雨の横通りを歩いて駒込署へ行った。
 二階の狭い高等室に誰もいず、カサのないむき出しの電燈が、机の上のさまざまな印形の詰った箱だの「自警」という雑誌の表紙だのを照らしている。あたりは埃っぽく、きたなく見えた。椅子にかけて見廻していると、
「――どうした」
 瘠せぎすで神経質な顔に一種の笑いを浮べて中川が入って来た。警視庁の芸術運動係りとして、プロレタリア文化活動をする者にとって忘れる事の出来ない暴圧係りの中川成夫という警部だ。口先を曲げ、睨《にら》むようにしながら、
「君ひとり様子を見に帰ったというところか」
といった。
「あなたがたの方からいうと、そういうことになるんですか」
「そうさ」
 日本プロレタリア文化連盟に関し、今度は君の態度を明らかにしてもらおう。文化団体の資金関係。上《うえ》との関係。
「それに、こういうものもある」
 書類入鞄から中川は「大衆の友」の附録、選挙特輯号を出して見せた。

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