いない、しかしと云ってプドフキンの映画理論にふれている。大森氏がプドフキンという名をとりあげた以上、それは日本にどういう種類の映画理論をつくろうとしている意図かということは「こっちに分る」のだそうである。又、同じ映画時評の中に、ある日本映画について、農村の生活の悲惨の現実がある以上それを芸術化する当然さについて云っているが、これは、悲惨な日本の農村の生活は「どうなれば幸福になれるかと云っているのだという意味がある」。従って映画時評であっても人[#「人」に傍点]によっていけないというわけで云々。
「内容による検閲ということは当然そうなのですが、人民戦線以来、老狡になって文字づらだけではつかまえどこがなくなって来たので……」
云々。「一番わるく[#「わるく」に傍点]解釈するのです」
 本年は憲法発布五十年記念に当る年である。二月十一日には大祝祭を行うそうである。その年に言論に対する政策が、一歩をすすめ、こういう形にまで立ち到ったことは、実に深刻な日本の物情を語っている。常識の判断にさえ耐えぬ無理の存在することが、執筆禁止の一事実でさえ最も雄弁に告白されているのである。

 我々に加えられた
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