その気がなかった。いかに彼等に好意を持ってはいても、「年中桜が咲く島」の女として、子供がバチを拈《ひね》るように玩具にされることは堪らない。彼等の好奇心は、何の悪意がなくとも、ときには不愉快を圧えきれなくなるほど濃厚である。ユダヤ人だからではない、すべてこちらのあまり教養のない人間はそうなのである。
それ故私の無干渉主義は、立ち入った一度の交渉なしに今日まで進んで来たのである。
ところがちょうど昨夜、もうかれこれ十時近い頃であったろう、二階へ誰か女が訪ねて来たらしい様子がした。何かしきりに相談でもしていると見えて、開け放した階子口《はしごぐち》の戸を通して聞える声は、珍らしく真面目である。けれども、何を話しているのか内容は分らない。ただ空気を截《き》って虫が飛ぶように、ヒッシュヒッシュという力強い語尾だけが、連続した断音となって鼓膜を打つのである。
かなり男性的な抑揚をぼんやりと耳にしながら、仕事を仕続けていると、前から聴いていたのだろうGが突然、
「おや、あの人達はまた誰かに部屋を貸すんですね」
と云った。
彼の拾い集めた断片によると、下のユダヤ人の母親は、借りた二階のどの部屋かを、また今来ている女に貸す相談をしているのだそうだ。私はそれを聞くと、利口なものだなと思わずにはいられなかった。
お爺さんお婆さんは、新来の彼女等にいくらでも高価《たか》く自分達の部屋部屋を明けわたして利益を得ようとする。借りた彼女は、また借りものの一部分でもを又貸しして、払う金を浮かばせようとする。まるで鼬《いたち》ごっこのようである。思いつかないような遣繰りをする周密さには驚ろかされるけれども、そんなにもセカセカと気を配らなければ生きても行かれない世の中なのかという考えは、心を暗くする。何かしきりに耳を傾けている彼に、私は独言《ひとりごと》のように呟いた。
「そんなに敏捷《スマート》に立ち廻らなければ暮せないのかしら――」
「さあ――……」
すぐ後を続けて何か云おうとした彼は、急に不愉快な表情をしていずまいをなおした。
「御覧なさい、あんなことをいうからユダヤ人は人に嫌われるんだ」
「何が?」
「下の女がね、上はゆっくりしているのだから若しこっちの工合が悪かったら、いくらでも三階を使えば好いなどと云っているんです」
今まで漫然と筆を運びながら聴き流していた私は、この言葉で思わず手を止めて彼を見た。
「こっちを使う? こっちの何を使うというの?」
「さあ何だか――たぶん顔を洗うところででもあるでしょう」
「それじゃあ困るじゃあありませんか、どこの誰れか分らない者に、そう勝手に出入りされては不安心で困るわ」
「困りますとも、第一不用心だ。仕方がないな――まあ後で考えましょうよ」
私はこの思いがけない報告で、少なからず不愉快な思いをさせられた。誰でも知っている通りこちらの習慣として、まるで関係のない他人の専用している部屋へは、たとい、戸一つの境でも無断で出入りする者はない。習慣、非習慣は第二の問題として、下の女が、借手《かりて》を少しでも魅する材料として、全然下とは没交渉な私の部屋まで勝手に自分の範囲に引入れた心持が厭《いや》である。
たぶん一時の出放題であろうとは思っても、気まずさは決して減じない。彼女はやっぱり、ああどうせユダヤ人だから仕方がない! という、ありきたりの結論にまで私を滑りこませようとするのだろうか。
私は知らず知らず、上の小部屋で飛んで行く雲を眺めながら、彼女の息子も未来の大音楽家と夢想して、独りで好い心持になっていた自分を思い出さずにはいられなかった。私はあんなに好意をもって空想していて上げたのではないか、と云ったところで彼女は微笑しながら、それはあなたの御勝手でございますと云うだろう、自分は喜劇役者であり過ぎる。お人好しであり過ぎる――。
けれども、そのお人好しを私は決して拒絶しようとは思わなかった。自分は偽《だま》されても正直者の方がよい。疑い合い、索《さぐ》り合い要心し合って暮す人生が、どうして歓びへの第一歩であろう、そう偽されても正直者の方がよい――がしかし、私の心持は平静ではない。晴朗さがかき乱される。多少ながらそれを自覚することが、また一層自分自身に苦々しいのである。
私は渋い顔をして床に就いた。
四
眠りに就くまで苦しい気分が去らなかった昨夜のことは、一夜経って目覚めるとともに、どうかしてすっかり忘れていた。
まして今日は勉強にこの上もない天気である。ギラギラし勝ちな日光は柔かく薄雲に包まれて、澄み渡った湖面が和《なご》やかな藍を溶かしている。新鮮な目覚めるような微風が、爽《さわやか》に楡の梢を揺らめかせては、小部屋一杯に溌溂《はつらつ》とした大気を漲らせる。お気に入りの涼味と穏やかな陰影とが、散らばった紙や書籍に優しく絡んで自分を待っていてくれたのを見ると、どんなに私は悦ぶだろう、八月の始めに故国へ帰る人に託そうとする原稿は、まだ沢山溜っている。それだのに激しく暑かったり、大風が吹いたりして気分の纏らない日はほんとに辛い。が、この、今日のような天気! それは全く素晴らしい。私は嬉しまぎれに歌を唱いながら体を拭いたり髪を上げたりした。そして子供のような晴々した気分で下に御飯を食べに下りた。第一階目に私の食堂があるのである。
香りの好い珈琲《コーヒー》を啜《すす》りながら、私はいつか仕事のことを考えていた。おいしいトーストを食べながらもそのことを考えた。殆ど口では云い表わせない、あの集注した真剣な、緊張した気分に満たされながら、私はまるで頭のうちに浮んだ仕事を噛むで味うように御飯を食べ始めたのである。
ところが、もう少しでそれもお仕舞いになろうとしたとき、一箇処に凝集していた私の注意はふと妙な物音に、引きつけられた。
人の足音である。明かに大人の足音である。それがコトリ、コトリと忍びやかに上の部屋へ登って行く――。私は思わずオヤと云って立ち上った。なぜならば、この部屋の傍を通って行く階段は、私ほか使わないものなのである。私ほか使わないのだから、従って、私の部屋へ用事のある者以外に決してここを登って行くはずはないということになる。二階の人達の使うのは、それとは反対の側にちゃんと付いているのである。
耳を欹《そばだ》てて怪しんでいる私の頭の上を、人は依然としてカタリコトリと動いて行く――、瞬間に昨夜のことを思い出した私の目前には、明け放して来た寝室や、紙の散らばった机の上の様子が電光のように通り過ぎた。いつの間にか唇を噛んで下を向ていた頭を持上げると、私は大急ぎで戸外にいる彼のところまで出かけて行った。
「グランパ、私の部屋へ誰か登って行く」なぜだか分らないが、私の唇からはひとりでに囁くような小さい声が出た。
あまり小さい声だったので聞えなかったのだろう。
「え?」と云いながら振向く彼の顔の真正面で、私は「誰か部屋へ行くことよ!」と叱るようにムキな声を出した。
変に緊張して強直した感じが体中に漲って、私を自由に歩かせない。卓子《テーブル》の前まで戻って来ると、世界が急に真黒になりはてたように、何にも彼にもに気がなくなった私は、ぼんやりと食べかけの卵に小さい羽虫が飛びつくのを眺めていた。
彼が行った頃三階にはもう誰もいなかったそうだ。しかし入口の扉は確に閉めて置いたのに明け放してある。人の気勢を感じて、大急ぎで二階へ戻ってしまったのだろう――。
彼も明かに不愉快を感じているらしい。暫く、困るな、困るなと呟いていたが、やがて地下室へ降りて、三四寸幅の板切れを一つ見付け出して来た。
「何になさる?」
私はつい彼に気の毒なような声を出してしまった。まだすっかり心の動揺が落付いてしまわなかったのである。
「これ? これで三階へ上れないようにするんです」
「上れないように? どうやってなさるの」
「大丈夫巧く出来るから見ていらっしゃい、あなたが気に入らなければ除《どけ》るから好いでしょう」
「だって、変じゃあないの、それじゃあ私はどうして上るの!」
彼も黙ってしまった。私も黙ってしまった。黙ったまま彼が長さを計って鋸を当てる木片を見ていた。見ているうちに、私の心の底には、殆ど堪らないほど醜いという感じが湧き上って来た。醜い! ほんとに厭なことだ。一構えの家の中でありながら二階と三階との間にこんな仕切りを拵える……拵えさせるようなことをする人達!
かなり激しい激動《ショック》を感じたすぐ後の私の心は、この二重の厭わしさに、殆ど目が眩むような醜陋《しゅうろう》を感じずにはいられなかったのである。彼等と自分達と相方に対する道徳的羞恥ともいうべきものが、ぐんぐんと私の胸に込み上げて来る。晴やかな朝の日光を吸って、ホヤホヤと毛《け》ばだった荒削の板の、無表情な図々しさ。非常な淋しさと不思議な憤りに私は凝《じ》っとしていられないような気分になってしまったのである。
「そんなものをなぜ拵えなければならないの、私はほんとに厭だ、ほんとに――。どうしても拵えなければ駄目なの?」
下を向き続けて赤味の上った顔を擡げながら彼は板を持って卓子の前に来た。
「若し誰が上っても拘《かま》わないなら拵えないで好いのですよ。けれども若しそれが厭ならどうにかしなければ仕方がないでしょう」
「それはそう。だけれども厭だとはお思いなさらない? もうさっきああやって、私共が気が付いたことが分ったんだから、もう気が引けて止めはしないか知ら」
「そんな敏感なら始めからやりますまい。どんな人間だって心を持っている者は、こんなことをしたいと思うものですか、けれども考えて御覧なさい、留守の間に子供達に部屋中掻きまわされたり、好い気になって下の連中が時を拘わず勉強しているところへやって来られたとしたら、お話にもならないじゃあありませんか? そうでしょう」
それはもちろんそうである。たださえ彼等の饒舌と、好奇心に僻易《へきえき》しているのに、若し万一上と下とが流通になって、賑やかな女連が、何を書いているのか、面白い字を書くものだなどと寄って来られてはほんとにどうにも仕方のないことになってしまう。
気分が単純なだけしたい放題にさせて置くと図に乗って何をするか分らない。私がいない間に、大切な机の上をいじられたりすることを思うのは、たとい想像だけでも充分に私を脅かさずには置かないことなのである。
ほんとになぜ人間は、純粋に他意なく心から心へと響きわたらないのだろう。なぜ光り動く直覚がないのだろう。なぜもっと触手ある感覚がないのだろう。
こういうことに逢うと私は苦しまずにはいられない。私の性格として、あっちがああ出るならなに拘うものか、こっちもこう出てやれという考えかたは出来ない。そして私の心の中には二重の苦痛が湧くのである。
第一、そういうことに度々逢って渋い思いをしなければならない世の中というやや抽象的な愁しさ。それと同時に、自分がかなり純粋な心で対していた者が、平気でそれを裏切って、私に苦々しい幻滅を味わせずには置かないこと、その幻滅が、何千人の人間の魂から「ありたい」という尊ぶべき望を殺戮《さつりく》してしまっただろうという恐ろしい回想。
まして、ふだん侮蔑されたり、疎外されたりしている彼等は、私がその札を出すことの原因を、単に彼等がユダヤ人だからという動機にのみ置きはしまいかという心苦しさが、一層私に辛い心持を与えるのである。
これ等の思いを一面から見れば、ただ私自身のお人好しの理想や空想の惨めな没落を悲しみ嘆いているのだともいえよう。しかしそれとまた同時に私のうちには、彼等自身のために彼等の背後に立ってそれ等を寂しく眺めやる心持もあるのである。
彼等がユダヤ人でなかったら、そんなことはしないかも知れない、がしかし彼等はした。して何か「いやなもの」を痛感させる。その目前に突出される「いやなもの」を跳び越せない自分は、それに溺《おぼ》れないために何かしなければならない。
いつも私が
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