は貴重品だった。徳川時代になって服装は、一層複雑に当時の封建社会の矛盾をてらし出すようになった。
 擡頭しはじめた町人が、金の力にまかせて、贅沢な服装をし、妻女に競争でキラをきそわせたことは西鶴の風俗描写のうちにまざまざとあげられている。幕府はどんなに気をもんで、政治的な意味でぜいたく禁止令を出したろう。それは、町人たちによって、きかれたようで実は決して服従されていなかった。江戸趣味といわれる、着物や羽織の裏に莫大な金をかける粋ごのみ、一見木綿のようでひどく質のいい絹織である結城紬、こういうこのみ[#「このみ」に傍点]は、政治上の身分制に属しながら、経済の実力では自分を主張した町人階級の反抗の形としてあらわれたのであった。
 徳川時代にももちろん紡ぐこと、織ることは一般の婦人、特に町人の婦人たち以外の仕事で、全く手工業として行われているのだが、興味あることは日本の織物として特色のある絣、それに縞、これらが女の人によって発明され織られていったことである。思いつきのいい或る女の人、感覚のいい人が独創性を発揮してそういう絣や縞を作り出した。それだのに、こういう独創性や能力は社会的に日本の生産
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