衣服と婦人の生活
――誰がために――
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)濫觴《らんしょう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)こういうこのみ[#「このみ」に傍点]は、
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 女性と服装のことについては今日まで、実に多くの話をされて来た。服装一般の問題、糸を紡いで織って縫って着るという仕事に、女の人生はこれまで歴史的にどんな関係をもってきたものだろうか。着物と女の運命についてすこし社会的に見直されてもいい時になっているのではないだろうか。
 衣類または服装と婦人との社会的な関係をあるがままに肯定した上で、これまで整理保存の方法、縫い方、廃物利用、モードの選びについてなどが話題とされて来ている。けれども考えてみれば女性が縫物をすることになったのは一体人間の社会の歴史の中でいつ始まったのだろう。糸を紡ぐこと、織ること、そしてそれを体にまとえるように加工することは非常に古い時代から女のやることであった。これはギリシア神話の中のアナキネという話の物語にでも推察される。アナキネは大変美しく可愛い娘で、織物を織ることが上手であった。みごとな織物をする上に美しいものだからオリムパスの神々の間にさえ大評判になった。神々の首領であったジュピターはその大変美しい織物上手の娘が好きになった。ジュピターの妻ジュノーの嫉妬がつのって、到頭哀れなアナキネはジュノーのために蜘蛛にさせられてしまった。そんなに織ることがすきなら、一生織りつづけているがよい、と。女神から与えられた嫉妬の復讐として、美しい織物ばかり織りつづける蜘蛛にさせられたという伝説の中には、女はいつも糸を紡ぎそれを織らなければならないということについての悲しみの感情の現れがあると思う。しかもそれが、神の罪のように逃げられない運命と語られているところに古代のギリシアの社会でその仕事が何かしら、幸福の表徴としてはうけとられていなかった証拠だと思う。ひろく知られているところのギリシアの社会は、人類の若々しい文化をはじめて花咲かせ、古典文化のつきない源泉となったが、このギリシアの繁栄と自由とは奴隷使用の上に咲きほこっていた。人口比率は一人の自由人に対して五人ぐらいの奴隷があって、その奴隷が生活に必要なすべての労役的仕事をしていた。紡ぐことも、織ることも、縫うことも、奴隷がした。主に女奴隷が主人たちの必要のために糸を紡ぎ織りして、主人たちは直接そういうことをしなくてもよい生活を送った。そういう社会構成の上にギリシアの自由都市は築かれていた。アナキネの物語は、ギリシアの社会に、婦人の本当の自由がなかったこととともに、女に課せられている紡織仕事に対し疑いをもっていたことがうかがわれる。
 ジュノーとアナキネの関係が織り紡ぐ仕事における奴隷と主人との関係、義務を与えるものと、義務づけられたものとの関係を語っている。これを一つの例としてみてもすべての神話はその神話のつくられた時代の実生活とその社会的な根拠から湧き出ているということがわかる。ヨーロッパの封建時代、中世にはいろいろな騎士物語がある。騎士物語が近代小説の濫觴《らんしょう》となっているのだが、なかで有名なランスロットを主人公とした長い物語がある。その中に美しい孤独のシャロットの姫君が登場する。テニスンが物語っているとおり古い城の塔の中に孤独な生活をしているシャロットの姫はというとその古い蔦のからんだ塔の中で一面の大きな鏡の前で機を織って暮している。もしシャロットの姫を愛し、その孤独から救ってくれる騎士があらわれれば、その騎士の姿は必ずこの大鏡の上にうつる、という予言がある。
 シャロットの姫はもう何年も鏡の面をみつめながら、古城の塔で機を織りつづけたろう。今日もきのうも、そしてあしたも、シャロットの姫のものうい梭の音は塔に響いた。ところがある日シャロット姫がいつものように鏡を見ながら機を織っていたら、鏡の面をチラリと真白い馬に跨った騎士の影が掠めた。シャロットの姫がはっとしてその雄々しい騎士の影に眼を見張った途端に鏡はこなごなにくだけ、もう決してその騎士に会うことはなくなった。哀れな運命であったシャロットの姫の物語は、今日、私たちに何を告げているだろう。
 ヨーロッパの封建時代である中世に女の人の生活は、どんなに運命に対して受動的であり、その受動的な日々の営みは、あてのない幸福を待ちながら城に閉じ籠って、字を書くこともなく、本を読むこともなく、朝に夕に機を織ったり刺繍したりしているばかりであったという現実が現われていると思う。日本でも太古の社会で既に紡織の仕事をしていた。天照大神の物語は日本の古代社会には女酋長があったという事実を示しているとともに、その氏族の共同社会での女酋長の
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