ういう時代錯誤的な切ない風景を街に現出した根源には戦争による国民経済の破壊があり、そこに君臨した制服万能の問題があることをわたしたちは決して見のがしてはならないと思う。制服というものは土台、一人一人の人格や個性、その人の人生を抹殺して、一定目的のための集団性を示す手段ではないだろうか。一人一人から名前を取って番号形にしてしまうと同じで、兵隊でも監獄でも個性を示す銘々の着物は決して着せない。女学校でさえ制服のスカートの長さを、長いとか短いとか、喧しくいった。男はすべていがぐり、女のパーマネントは打倒。そして私たちは戦争に追いたてられ、今日のギセイとなっている。
 ブルジョア民主主義の進んだ国ではそれぞれの人が自分の能力とこのみに従って、どんななりをしようとも、好きなものを着て個性を発揮していいところまで行っている。しかしその段階では、まだ着るものも買えない人々の存在が絶滅されていないし、「着るに着られない」という状態も、またそのひとの力相応とみる矛盾がのこされている。
 本当にわたくしたちが社会で働き得ること、その働きによって、衣食住が保障されること、こういう生存の必要条件が合理的に保証されていなければ、最も長い時間裁縫工場で働かなければならない婦人が、着るに着られず生活しなければならない矛盾は解決されない。
 いい身なりということについても、随分わたしたちの感覚はしっかりして来たと思う。美しい身なりというものを生活的に感じとるようになって来ていると思う。私たちは誰でも、雨の降る日にレイン・コートもないのに絹の着物なんか着て歩きたくないと思っている。雨になって直ぐ縮むような縮緬《ちりめん》の服をつくるより、麻のワンピース、木綿の着物、雨が降っても大丈夫な長靴が欲しいし、そういう生活の役に立つ服装がすべての人に余り差別なく出来るようでありたいと思う。私たちが衣服についてもつ希望や要求はこんなに遠大な本質をもつものであることを、私たちは知っていただろうか。
 政治というと、私たちの生活に遠いことのようだけれども、こうして、衣服一つとして追求してもやはり結局は社会的な意味をもっている。人民全体が、どう食べ、どう住み、どう着ているのか、そしてどんな教育をされているかということは、ひとの政治問題ではない。じつにわたしたちの運命の課題なのである。
 服装について、センス(感覚)と
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