の風波にもまれている境遇を貫いて互に一生懸命失うまいとしている人生へのある態度の側から、語られてゆくと思える。人一人の生涯の推移変遷は予測しがたいところがある激しさだから、ある時期は互の移りゆく速力が倍加した速力となって互に作用し合うような時期もあるだろう。そういうときでも、なおその間に十分な同感、納得、評価が可能であるだけの確乎とした生活態度が互の生活に向っても一貫されているということこそ、稀有だろう。自分の生活、友の生活に向ってそれだけ強い意識をもちつづけ得るほどの強靭な人間性というものが珍しく、従ってその上に初めて可能に現れるしその友情が珍しい人間の歓びであるのだと思う。
 同性の間で真の友を得ることができない女や男が、異性との間に友情と呼ぶにふさわしい感情を培いえている例は見ない。人間関係を大切に思い評価しあう心が根源をなしている友情で、それが異性の間にある場合、私たちはそれぞれのひとの配偶としての同性に対して、友の生きかたを尊敬する意味において十分鄭重であるのが自然だと思う。同性の友情が、常にその友の対手である異性に対して、友の感情の必然を理解しているという意味から慎重であり、節度をもっているのが自然であると同様に。
 友情のそういう健全な敏感さは、日常の接触のおりおり、みだす力としてより整える力として発露して、異性の間の友情をも調整して行くものである。くだらない偶然で紛糾をひきおこすことは避けるだけの実際性にも富んでいることが生活態度としてある貴いものを与えることにもなるのであると思う。
 友情という二つの文字は簡単だが、そこにこめられてある内容は何と複雑だろう。まして、異性の間に友情が友情本来の社会感情の内容で見出されはじめてから、歴史はまだずいぶん新しい。日本ではことにそうである。友情という感情内容が何となし薄味であるかのように感じられる程、それは異性の間に社会感情の間では若々しい芽である。社会的には全く複雑な要因に立つ異性の間の友情が、いたるところで一見まことに単純自然な花々を開かせているという気持よい人間的美観は、私たちの気短かい期待でいきなり明日に求めても無理で、個人と社会とのそこに到ろうとする着実な一歩一歩のうちに実現されて行く可能なのである。[#地付き]〔一九三九年十月〕



底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年7月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
   1952(昭和27)年8月発行
初出:「婦人公論」
   1939(昭和14)年10月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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