ぐれでございます。まるで眺望がないから陰気でいやだと申しましてね。近頃おはやりの土地開放とやらの真似事でございましょう」
 二人は声を合わせてそっと笑った。
「お宅では? 定めしいいところにあれでございましょう」
 夫人はみや子に問いかえした。
「まあ私共などはそれどころではございません」
 思わず地声で高く言ったみや子は、紛らすように顔をそむけて咳払いをした。彼女はむせたような、ややわざとらしい低声で云った。
「日下部も元気なようでも年でございますから、近頃はよく日曜にかけて気楽に暖い海辺にでも参りたいと申すのでございますが――矢張り手頃なところはもうちゃんと何方かがお約束でございましてね」
「本当に――お国元ももう少々近うございますとよろしいのですが」
 みや子はやがて、空想に浮ぶ沼津の風光の美しさに我知らず恍惚《うっとり》したように呟いた。
「沼津あたりはさぞおよろしゅうございましょうねえ、上つがたのお邸さえございます位ですもの。――年をとりますと不相応な我ままが出まして、宿はどのように鄭重にしてくれましても何処となし落着のないものでございます……」
 子爵夫人は、蒼白い気の優しい顔にぼんやり同情とも困惑ともつかない表情を浮べた。彼女は暫く黙っていたが程なく独言のように呟いた。
「若し……」
 みや子の夫人に向った一方の耳はむくむくと大きくなって行くように鋭く次の言葉を待ち受けた。が、みや子は、凝っと何も心づかないらしい静粛を守って睫一つ戦かせなかった。夫人はつづけては何も云わない。みや子のうつむいた前髪はこの時彼方にいる良人に向って、
「今何か云い出してはいけませんよ。夫人は私共に大事なことを思いつけかけていらっしゃるのです」
と警戒しているように見えた。

        三

 婦人達のかたまっている長椅子から十歩足らず隔っていた日下部太郎は、彼女達の間に、どんな微妙な外交的黙劇が行われているか知るどころではなかった。
 たといみや子が夫婦間の特別な敏感さを利用して熾《さかん》に暗号を送ったとしても、その時の彼は、頼りにならない無反応の冷淡さを証拠だてるに過なかったろう。何故なら彼はこの瞬間、N会社の取締役としての日下部太郎でもなければ、高畠子爵相談役としての彼でもなかった。ましてみや子の良人だということなどは念頭にもなかった。彼は心魂から根気よい、熱心な情の深い古陶器愛好者となりきっていたのであった。
 子爵と喋りながら、暖炉前のぽかぽかする場所から何心なく室内の装飾を眺めていた日下部太郎は、ふと側棚にある一枚の皿に目がとまると、覚えず眼を瞠って椅子からのり出した。天井から来る明るい燈光の煌《かがや》きと、大卓子の一隅からのデスク・ラムプの乳色を帯びた柔い光とを受け、書斎の高い※[#「木+解」、読みは「かしわ」、第3水準1−86−22、435−6]の腰羽目は、落着いた艶に、木目の色を反射させている。その前に、紫檀の脚に支えられ、純粋極る東洋紅玉のような閃きを持った皿が、一枚、高貴な孤独を愉しむようにゆったり光を射かえしていた。直径九|吋《インチ》もあろうか。濃紅な釉薬《うわぐすり》の下からは驚くべき精緻さで、地に描かれた僧侶の胸像が透きとおって見える。
 これ程のものが今迄彼に見えなかったのは、偏《ひとえ》に彼の位置がわるかったからに違いない。日下部太郎は、感動を声に出して立ち上った。彼は高畠子爵が背後から何か云ったのを聞きしめる余裕を持たなかった。彼は側棚に近づくと、体をかがめ吸いつくように皿を眺めた。ひとりでに手をのばし、皿をとりあげると、表、裏、裏表と繰返し繰返し調べた。彼はそっと皿を元の台に戻すと、子爵に振向き、呻くように云った。
「珍しいものをお持ちですな。何処でお手に入りました?」
 子爵の答えを待ちきれないらしく、彼は再び皿を手にとった。
「珍しい。こんなマジョリカが日本で手に入りますか。――いい艶だな」
 日下部太郎は皿を調べながらだんだん独言のように呟いた。
「ふうむ。なかなか放胆な調子だ。しかも充分荘重で優しい」
 彼は子爵に云いかける積りで大きな声を出した。
「この深紅の艶の下によく思いきって藍《ゴス》を使いましたな。ふうむ。――なかなかいい」
 裏には、薄く琺瑯《ほうろう》のかかった糸底の中に茶がかった絵具で署名がしてあった。先の太く切れた絵具筆で無雑作らしく書いたM・Sという二つの頭文字と、上に一五四〇年という年代が記入してある。皿を掌の上でかえしながら、日下部は頭の中で模索した。
「M・S・と。――M――S――……何処かで見たな。この楽譜の始りに書いてあるような形のSは。――」
 そういえば、彼には、表面の独特な模様も何日か何処かで見たことがあるように思われた。円皿に円形で区切った模様
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