を出して見せた。彼女は莞爾《にっこり》ともしないで眼を通した。彼が新聞に出そうと思った広告の下書きであった。
『女中雇入れたし。家族二人。余暇有。十八歳以上。給。面談。』

 広告は幸応えられた。
 二日経って広告が掲載されると其朝、さほ子は、間誤付をかくした真面目な顔付で、一人の娘を食事部屋に案内した。
 広告を見て来た其娘は、二十《はたち》前後で、細そりした体つきをしていた。念を入れた化粧をし、メリンス友禅の羽織を着、物を云うとき心持頭を左に曲げながら、何故か苦しそうに匂やかな二つの眉をひそめて声を出すのであった。
 少し荒れた赤い小さな唇を見「さようでございますの」と云う含声をきいた時、さほ子は此娘をお前と呼ぶべきなのか、貴女と云うべきなのか、心を苦しめた。
「国は何処?」
 彼女は、優しく前髪を傾けて答えた。
「越後でございます」
「東京には、其じゃあ、親類でもあるの?」
 娘は、唇をすぼめ、悩ましそうに一寸肩をゆすった。
「――親戚はございませんですが……」
 黒目がちの瞳で顔をじっと見られ、さほ子は娘の境遇を忽ち推察した。
「じゃあ、友達のところにいるの?」
「――はあ」
 給料のことも簡単に定ると、彼女は娘を待たせて良人のところに行った。
 彼女は亢奮した顔で良人に囁いた。
「まるでお嬢様よ。変に可愛いの」
 彼は眩ゆいように眼をちらつかせた。
「――働けそうかな」
「大丈夫よ。家の事は子供の時からしているんですって。手は確に働いたことがある手だわ。――いいでしょう?」
「さあ……いて見なければ判らないが」
「兎に角暫くでもいいわ。其に、若しこの後誰も来ないと大変だから、ね」
 千代は、いると定ると、牛込の宿に行って荷物を取って来た。大きくもない風呂敷包み一つが、美しいその娘の全財産であるらしかった。三畳の小部屋に其を片づけて仕舞うと、彼女は立って台所に来た。
 さほ子はメリケン粉をこねながら、千代が、来た時と同じ華やかなメリンス羽織を着ているのを認めた。
「ふだんはね、其那奇麗ななりをしないでいいのよ。さっぱり働きいい方が好いからね」
 千代は、桃色の襟をのぞかせたエプロンの上に両手を重ね、伏目になって云った。
「はい。――でも……あのこれ一枚でございますから」
 さほ子は、気の毒らしい顔を伏せて、せっせと鉢の中をかきまぜた。
「――もう一枚一寸したのがございますんですけれど。――国を出ます時、友達にあずけて旅費をかりましたもんでございますから」
 暫く沈黙の後、さほ子は傍に見ている千代に云った。
「家ではね。お料理は簡単なのよ。だからどうかすぐ覚えて自分でやれるようにして頂戴。今こしらえるのはね」
 彼女は、料理の説明をした。手を動している間じゅう、彼女は調味料の置場所や、味のこのみやその他を話してきかせた。千代は、実に従順にしとやかに一々「はい」と答えた。れんの遽《あわただ》しい今にも何かにつき当りそうなせき込んだはい、はいの連発ではない。艶のある眼で、流眄《ながしめ》ともつかず注目ともつかない眼ざしをすらりとさほ子の頬の赤い丸顔に投げ、徐ろに「はい」と応えるのであった。けれども、両手はエプロンの上に、品よく重ねたきり、一向動かそうとはしない。
「一寸あのお玉杓子をとって頂戴」
 命ぜられた品をとって渡すと、顔ほどは美しくない彼女の二つの手は、眠い猫のようにすうっと又エプロンの上に休んで仕舞う。
 さほ子は、困った眼付で、時々其手の方を眺た。
「――まあ仕方がない。様子が判ったらやるようになるだろう」
 然し、その困ったような、落付かない妙な感じは、千代と二人で食事をした時、一層強くさほ子の胸にはびこった。
 馴れない者同士と云うより異った居心地わるさがあった。千代の優婉らしい挙止の裡にはさほ子が圧迫を感じる底力があった。千代の方は一向平然としている丈、さほ子は神経質になった。
 千代を傍観者として後片づけをしていると、良人は、さほ子に訊いた。
「どうだね?」
 気づかれのした彼女は、ぐったり腕椅子に靠れ込み、髪をなおしながら、余り快活でなく呟いた。
「さあ。――少し疑問よ」
 同じように不活溌な千代の手にやや悩まされながら二日目の朝食がすむと、さほ子は、三畳の彼女の部屋に行って見た。
 千代は、きのう来た時と勝るとも劣らない化粧をこらした顔を窓に向け、ちんまり机の前に坐っていた。
 机の上には、小さい本立と人形が置いてある。人形――人形。
 さほ子は、変な間の悪さを覚えた。彼女は、曾祖母が維新前、十六でお嫁に行く時、人形を籠の中で抱いて行ったと云う話を思い出した。
 今の時代の十九の、故郷を出奔した娘が此那大きな人形を抱いて来ると想像出来ようか。いじらしいような心持と、わざとらしさを嫌う心持が交々《こもごも》さほ子の心に湧いた。
 千代は、その人形を見せ、彼女に国の話をきかせた。
 千代の話によれば、彼女の父は町で有名な酒乱であった。彼女の母は、十年前妹をつれて逃げ、今名古屋にいる。その人形は、数年前、母に会いたさに父に無断で名古屋に行った時、母に買って貰ったと云うものであった。今度、到底いたたまれないで逃げて来るにもその人形だけは手離せず包に入れて持って来たのだそうだ。
 成程古いのだろう。
 やすもののその西洋人形は、両方とも眼がとれていた。亜麻色の濃い髪を垂れ、赤い羽二重の寛衣《シャツ》をつけた人形は、わざとらしい桃色の唇に永劫変らない微笑を泛べ、両手をさし延して何かを擁《だ》き迎えようとしながら、凝っと暗い空洞《うつろ》の眼を前方に瞠っているのだ。
 千代は、越後の大雪の夜、帰らない飲んだくれの父を捜して彼方此方|彷徨《さまよ》った有様を憐れっぽく話した。
 さほ子にとって、其等の話は本当らしくも、嘘らしくもあった。彼女の話す声は全くそれ等の話に似つかわしいものであったが、容子はちっとも砕けず、余り自身の美しさを知りすぎているようであったから。
 さほ子は、陰気になって千代の部屋を出た。彼女は、本当か嘘か判らず而も話そのものは同情を牽かずにいないと云う話は好まなかった。
 三日四日経つうちに彼は家の中だけ歩くようになった。
 従って千代を見る機会も増した。
 彼は風呂場などに行ったかえり、よく妻と顔を見合わせては、むずかしい顔をして頭をふるようになった。
 それに対して、さほ子は瞹昧極る微笑を洩した。
 彼は、湯殿の鏡の前で、彼が後に来たのも知らず真心こめて化粧をなおしている千代を見出した。彼は困って咳払いした。千代は鏡の中でぱっと眼を移し、重って写っている彼の顔に向って華やかに微笑みかけそして、ゆっくりどきながら云った。
「まあ、御免遊ばせ」
 そしてすっと開きから出て行った。
 又、彼女は、食事の前後以外には、どんなに食事部屋でがたがた物を動す音がしても、決して自分の部屋から出ないと云う主義を持っていた。
 彼女の部屋の硝子から、此方に著たきりの派手な羽織のこんもりと小高い背を見せたまま別の世界の住人のように無交渉に納っている。
 千代が、さしずをされずに拵えるものは、何でもない、彼女自身の大好物な味噌おじや丈だとわかったとき、さほ子は、良人の寝台の上に突伏し声を殺して笑い抜いた。
 千代は、美しい眉をひそめながらぴんと小指を反せて鍋を動し、驚くほどのおじやを煮た。そして、行儀よく坐り、真面目な面持ちで鮮やかに其等を皆食べて仕舞うのであった。
「仕様がないじゃあないか、あれでは」
 到頭、彼が言葉に出した。
「置けまい?」
「――だけれど、もう三十日よ」
 さほ子は、良人の顔を見た。彼は目を逸し、当惑らしく耳の裏をかいた。
「けれども。――駄目なものなら早く片をつけた方がいいよ。いつ迄斯うしていたって」
 隅の椅子から、彼女は怨むように云った。
「――貴方仰云って頂戴。始めからの責任があるんだから」
「出ろって?」
 さほ子は合点をした。
「僕じゃあ角立つよ。お前が云った方がいい、正直に訳を云って。――已を得ないじゃあないか」
「……」
 さほ子は、夜の部屋の中をぶらぶら彼方此方に歩き出した。彼は不安げな眼でそのあとをつけた。
「私、出て行けって云うのは辛いわ。ましてあの人は、やっといる処が出来たって喜んでいるんですもの」
 程経って、彼が思い出したように云った。
「けさ、はがきが来ていたろう? あれの処へ」
「来ていたわ。――牛込から。……女の名だったけれども男よ」
「何かなんだろう?」
「そうだわ、きっと」
「――じゃ、帰る処はあるじゃあないか」
 二人は又黙り込んだ。
 卓子の上のスタンドが和らかな深い陰翳をもって彼の顔半面を照し出した。彼方側を歩いているさほ子の顔は見えず、白い足袋ばかりがちらちら薄明りの中に動いて見えた。
 十分ばかりも経った時、さほ子はやっと沈黙を破った。
「それじゃ、私斯うするわ。ね、貴方はこれから何処かへ転地なさるのよ」
「え? 誰が?」
「貴方が転地をなさるのよ」
 さほ子は、頭の中から考えを繰り出すように厳かに云った。
「お医者に云われたことにするの。私も一緒に行かなければならないから、留守番が入用《い》るでしょう? あの人じゃ、独りで置けないわ。ね。だから、れんを又呼んで、代って貰うことにするの」
「ふうむ」
 彼は、脚を組みかえ、煙草をつけた。
「其那ことを云わなくたっていいじゃあないか。駄目なのは駄目なんだから」
「――だって。じゃあ何て云うの。いきなり駄目だって云うにしろ、弱そうだからとも云えないし、辛そうだからとも云えないし。――そうでしょう? あの人全体少し何だか工合がわるいんですもの」
 彼等は再び沈黙した。
 置時計の小刻みなチクタクが夜の静寂を量った。
 翌朝、さほ子は重大事件があると云う顔つきで、朝飯を仕舞うと早速独りで外出した。
 彼女は街のポウストにれんを呼び戻すはがきを投函し、一つ紙包を下げて帰って来た。
 良人は妙に遠慮勝ちな、然し期待に充ちた表情で、時々さほ子の方を見た。彼女は黙り返って落付かず、苦々しげな気の重い風で、どうでも好い事にいつ迄もぐずぐずかかっている。
 千代と視線を合わさず昼飯をすますと、さほ子は終に決心した様子で、
「千代や」
と娘を呼んだ。
「はい」
 卓子に肱をつき、ぼんやりしていた彼は、悠々《ゆるゆる》立って居間に入って仕舞った。
 さほ子は良人には行かれ、一方からは千代のあでやかな白い顔が現れるのを見ると、愈々《いよいよ》進退|谷《きわ》まった顔になった。彼女は、真正面に目を据え、上気《のぼ》せ上った早口で、昨夜良人と相談して置いた転地の話を前提もなしに切り出した。
 彼女のむきな調子には何か涙が滲む程切迫つまったところがあった。余程急に出立でもしなければならないのか、又はその転地が夫婦にとって余程の大事件であるか、何方《どちら》にしろ只ごとではないと思わせた動顛と苦しさとが彼女の全身に漲っていたのである。
 千代は、凋れた表情になり、両手を痛々しくひきしぼりながら、
「まあ。――折角お優しいお家に上れたかと思って居りましたのに。――でも……そう云う御都合なら致し方もございませんけれど。私……」
と歎息した。
 さほ子は、承知された嬉しさと、二三日でも一緒に暮した者を家から出す苦痛とで、何とも云えない顔をした。
 彼女は、あやまるように、ほろりとする千代を励した。そして、最後に今朝買って来た紙包をとり出した彼女は、せかせか言葉を間違えたり、つかえたりしながら云った。
「あのね、これはちっともよくないんだけれど、平常着になるような羽織地だからね。――どこへ行ったって其じゃあ働けないから。……縫って著て。――本当に此那ことになって私気の毒で仕様がないのよ。――それからこっちはね」
 彼女は、少しばつの悪い様子をして、たたんである橄欖《オリーブ》色の布を出した。
「裏になるだろうからいやでなかったらあげるわ。元カーテンに使ってあったから片側は、はげているところもあるんだけれど」
 千代は、同
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