かがめようと、心に用意し決心しているかのようにさえ見える。
彼は、擽ったい焦立たしさを感じた。彼はぶっきら棒に云った。
「さっきの返事は?」
「はい?」
「さっきの電話の返事は?」
「ああ、ほんにまあ。――丁度お豆腐やさんがね参りまして」
「何て依岡で云ったんだ」
「――依岡様でよろしく申上てくれと仰云いました。いずれお正月にでもなりましたら旦那様も御全快になりますでしょうから、お二人様でおいでいただきましょうと仰云いました」
「ふむ。――」
彼は仰向いて枕についている眼の端から、れんを見た。もう行ってよいのか悪いのか判断しかねて、厚い木綿に着ぶくれた膝の辺を一層もじもじさせて此方を視ているれんの様子は、彼に怒鳴りつけたいような野蛮な衝動を感じさせた。
「第一あの切口上が堪らない」彼は心の中でむかついた。「変に黒く光る眼じゃあないか、無智極るくせに押のつよい。放って置けばのしかかるし、何か云うと直さまあわてて、はい、はいの連発だ。――度し難い奴だ」
「お前も何だな」
やがて彼は白い天井から文句を読み上るように云った。
「出かけるがいい。息子の処へ行ってゆっくり休んで来たらよかろう。――……春迄」
「はい?」
「――年寄で冬はひどかろうから春迄休んで来たらよかろうと云うのだ。此方はどうともなる」
「はい」
れんは思いがけないことなので、考えながら途切れ途切れに答えた。
「はい――はい」
然し、程なく云われたことの全部の意味を理解すると、彼女の胡麻塩の頭の先から爪先まで、何とも云えず嬉しそうな光が、ぱあっと流れさした。
れんは、感謝に堪えない眼をあげて、幾度も幾度も扉の把手につかまったまま腰をかがめた。
「有難うございます。年をとりますと彼方此方ががたがたになりましてね。本当にまあ!」
彼女は、丁寧に辞宜をした。
「有難うございます」
そして、下げた頭をそのまま後じさりに扉をしめ、がちゃりと把手を元に戻して立ち去った。
部屋は再び静になった。
彼は始めてのうのうとした心持になった。「ああああ、さてこれで当分、怒っていいのか笑っていいのか、顔を見る毎に苛々するあの婆さんには、会わないですむ」四辺の静寂が四箇月ぶりで、彼に温泉のように甘美なものに感じられた。
うっとりとした彼の目には、拭きこんだ硝子越しに、葉をふるい落した冬の欅の優美な細枝が、くっきり青空に浮いているのが見えた。ほんの僅かな白雲が微に流れて端の枝を掠め、次の枝の陰になり、繊細な黒レースのような真中の濃い網めを通って彼方にゆく。
庭の隅でカサカサ、八ツ手か何かが戦ぐ音がした。
チュッチュッ! チー チュック チー。……
暖い日向は、白い寝台掛布《ベッドクロス》の裾を五寸ばかり眩ゆい光に燦めかせて窓際の床の一部に漂っている。
彼は明るさや、静けさ暖かさの故で平和な、楽しい感情に満された。今日が降誕祭だと云うことも、宴会を断ったことも、彼自身が病気だと云うことさえも苦にならなくなって来た。彼は境の扉が二三分すかしてあるのを見つけ、さっきからことりともさせない隣室の妻に声をかけた。
「さほ子、さほ子」
然し、彼の妻を呼び一緒にこの晴やかな tete−a−tete の団欒を味おうとした希望は失敗に終った。
今日は殊更しおれて何処か毛の濡れた仔猫のように見える彼女は、良人かられんに暇をやった一条を聞くと、情けない声で
「困るわ、私」
と云い出した。
「どうして一言相談して下さらなかったの?」
彼は尤もな攻撃に当惑し、頻りに掌で髪を撫であげた。そして熱心に弁解的説明をした。
「相談しなかったのはあやまるよ。然し、本当に五月蠅い気の揉める婆《ばば》じゃないか」
彼は、さっきれんが一年にたった一度のクリスマスと云った口調を、その節まで思い出してむっとした。
「僕やお前が若いと思ってちび扱いにするんだ。代りなんかいくらでもあるよ。――僕だって先刻まで其那気はなかったんだが――」
彼女は寝台の端に腰をかけ、憤ったような揶揄《からか》うような眼付で、意地わるくじろじろ良人の顔を視た。
「仰云る気がないのに、言葉が勝手にとび出したの?」
「いつもいつも思っていたことが、はずみでつい出て仕舞ったのさ。僕は全く辛棒していたんだよ。ひとの顔さえ見ると何より先にきょとついて、はい、はいとやられると――参るよ」
さほ子も段々笑い出した。そして、良人の意見に賛成して散々気の毒な老女のぽんち姿を描いて笑い興じた。けれども、笑うだけ笑って仕舞うと、彼女は、足をぶらぶら振るのもやめ困った顔で沈んで仕舞った。
「もうじき大晦日だのにね。――どうするおつもり?」
彼女は、歎息まじりに訴えた。
「今其那に女中なんかないのよ。貴方男だから好きになすったって如何かなるには違い
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