或る日
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)降誕祭《クリスマス》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)小|卓子《テーブル》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ]〔一九二五年五月〕
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降誕祭《クリスマス》の朝、彼は癇癪を起した。そして、家事の手伝に来ていた婆《ばあや》を帰して仕舞った。
彼は前週の水曜日から、病気であった。ひどい重患ではなかった。床を出て自由に歩き廻る訳には行かないが、さりとて臥《ねた》きりに寝台に縛られていると何か落付かない焦燥が、衰弱しない脊髄の辺からじりじりと滲み出して来るような状態にあった。
手伝の婆に此と云う落度があったのではなかった。只、ふだんから彼女の声は余り鋭すぎた。そして、一度でよい返事を必ず三度繰返す不思議な癖を持っていた。
「れんや」
彼女に用を命じるだろう。
「一寸お薬をとりに行って来て頂戴」
「はい」
先ず見えない処で、彼女の甲高い返事の第一声が響く。すぐ、小走りに襖の際まで姿を現し、ひょいひょいと腰をかがめ、正直な赫ら顔を振って黒い一対の眼で対手の顔を下から覗き込み乍ら
「はい、はい」
と間違なく、あとの二つを繰返す。――
気の毒な老婆は、降誕祭の朝でも、彼女の返事を一つで止めにすることは出来なかった。その上、はずみが悪いと云うのは全くああ云うのであろう。
彼は、今朝妻が平常より言葉少く確に沈んで見えるのに気が付いていた。彼は自分の不快の為に彼女が断った今日の招待状が二枚、化粧台の上に賑やかな金縁を輝かせているの知っていた。
彼女は、朝の髪を結うとき、殆どひとりでに改めてその華やかな文字を眺めなおしただろう。きっと寂しい眼付をして窓の外を眺め、髪を結いかけていた肱を一寸落さなかったと如何《ど》うして云える?
起きてから、彼女は断った招宴について一言も云わなかった。けれども彼は、彼女の寡言の奥に、押し籠められている感情を察し抜いた。その一層明らかな証拠には、いつも活溌に眼を耀かせ、彼を見るとすぐにも悪戯の種が欲しいと云うような顔をする彼女が、今朝は妙に大人びて、逆に彼を労《いたわ》り、母親ぶり「貴女に判らないこともあるのですよ」と云いたげな口つきをしているではないか。
彼が寝台の裾の方の窓枠に載っているシクラメンの鉢を見ながら此様な事を考えていた時、彼方の廊下で激しく電話のベルが鳴り渡った。
れんがとり次いでいる声がとぎれとぎれに聞えた。程なく、彼女は、室の内側に開く扉《ドア》のかげにはりついたような形をして首だけ彼に向けながら
「依岡様からお電話でございます。あの――」
何故か、れんはこの時総入歯の歯を出してにっと笑った。
「旦那様の御加減はいかがでございますかと仰云ってでございます。そして、若しおよろしいようなら、今日は折角でございますから奥様だけでも是非おいで下さいますように。一年にたった一度のクリスマスで――」
「一年にたった一度のクリスマス!」その一句は、異様に彼の神経を刺戟した。まるで、その一度きりの日にさえ、妻の外出を止めるお前は良人なのかと云う詰問が含まれてでもいるようではないか。依岡の女中が一年にたった一度のクリスマスなんかと云うものか、この婆さん!
彼は、真白い、二つ積《がさ》ねの枕の上に仰向いたまま云った。
「一年に一度でも二度でも今日は上れませんと云え。奥さんだって行く気はないんだ」
扉の把手《ハンドル》を握ったまま、れんはあわてて二三度腰をかがめた。
「はい。はいはい」
扉をしめながら、彼女は更に一つをつけ加えた。
「はい。――」
彼は天井を見ながら我知らず苦笑を洩した。が、その笑が消え切らないうちに、彼の胸には、妙な鬱憤がくすぶって来た。
彼は眉を顰めながら、敷布の間で体の位置をかえた。枕の工合をなおした。
彼にはれんがちゃんと断って来た報告をしないのが気に触った。其上いつもなら枕元に椅子を引きよせて、五月蠅いほど何か喋ったり笑ったりする彼女―― Chatterbox が、自分の部屋に引こんだきりことりともさせないのは穏やかでない。
部屋はがらんと広く、明るく無人島のような感じを与えた。彼は暫く、両方の瞳を隅の方に凝して厚い壁で仕切られた隣室の様子に注意した。こっそり立ってクリーム色の壁のむこうを覗いて見たい気が頻りにした。――医者は動くことを禁じている。――
彼は、指先に力を入れてジーッとベルを押した。
跫音がして扉が裏側にれんをはりつけて開いた、彼女は、今度も把手に左手をかけたまま、首だけさし延して主人の方を見た。
彼女の顔は期待で緊張していた。何か一言云われたら、時を移さず「はい」と云う返事もろ共その膝を
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