突伏し声を殺して笑い抜いた。
千代は、美しい眉をひそめながらぴんと小指を反せて鍋を動し、驚くほどのおじやを煮た。そして、行儀よく坐り、真面目な面持ちで鮮やかに其等を皆食べて仕舞うのであった。
「仕様がないじゃあないか、あれでは」
到頭、彼が言葉に出した。
「置けまい?」
「――だけれど、もう三十日よ」
さほ子は、良人の顔を見た。彼は目を逸し、当惑らしく耳の裏をかいた。
「けれども。――駄目なものなら早く片をつけた方がいいよ。いつ迄斯うしていたって」
隅の椅子から、彼女は怨むように云った。
「――貴方仰云って頂戴。始めからの責任があるんだから」
「出ろって?」
さほ子は合点をした。
「僕じゃあ角立つよ。お前が云った方がいい、正直に訳を云って。――已を得ないじゃあないか」
「……」
さほ子は、夜の部屋の中をぶらぶら彼方此方に歩き出した。彼は不安げな眼でそのあとをつけた。
「私、出て行けって云うのは辛いわ。ましてあの人は、やっといる処が出来たって喜んでいるんですもの」
程経って、彼が思い出したように云った。
「けさ、はがきが来ていたろう? あれの処へ」
「来ていたわ。――牛込から。……女の名だったけれども男よ」
「何かなんだろう?」
「そうだわ、きっと」
「――じゃ、帰る処はあるじゃあないか」
二人は又黙り込んだ。
卓子の上のスタンドが和らかな深い陰翳をもって彼の顔半面を照し出した。彼方側を歩いているさほ子の顔は見えず、白い足袋ばかりがちらちら薄明りの中に動いて見えた。
十分ばかりも経った時、さほ子はやっと沈黙を破った。
「それじゃ、私斯うするわ。ね、貴方はこれから何処かへ転地なさるのよ」
「え? 誰が?」
「貴方が転地をなさるのよ」
さほ子は、頭の中から考えを繰り出すように厳かに云った。
「お医者に云われたことにするの。私も一緒に行かなければならないから、留守番が入用《い》るでしょう? あの人じゃ、独りで置けないわ。ね。だから、れんを又呼んで、代って貰うことにするの」
「ふうむ」
彼は、脚を組みかえ、煙草をつけた。
「其那ことを云わなくたっていいじゃあないか。駄目なのは駄目なんだから」
「――だって。じゃあ何て云うの。いきなり駄目だって云うにしろ、弱そうだからとも云えないし、辛そうだからとも云えないし。――そうでしょう? あの人全体少し何だか工合がわるいんですもの」
彼等は再び沈黙した。
置時計の小刻みなチクタクが夜の静寂を量った。
翌朝、さほ子は重大事件があると云う顔つきで、朝飯を仕舞うと早速独りで外出した。
彼女は街のポウストにれんを呼び戻すはがきを投函し、一つ紙包を下げて帰って来た。
良人は妙に遠慮勝ちな、然し期待に充ちた表情で、時々さほ子の方を見た。彼女は黙り返って落付かず、苦々しげな気の重い風で、どうでも好い事にいつ迄もぐずぐずかかっている。
千代と視線を合わさず昼飯をすますと、さほ子は終に決心した様子で、
「千代や」
と娘を呼んだ。
「はい」
卓子に肱をつき、ぼんやりしていた彼は、悠々《ゆるゆる》立って居間に入って仕舞った。
さほ子は良人には行かれ、一方からは千代のあでやかな白い顔が現れるのを見ると、愈々《いよいよ》進退|谷《きわ》まった顔になった。彼女は、真正面に目を据え、上気《のぼ》せ上った早口で、昨夜良人と相談して置いた転地の話を前提もなしに切り出した。
彼女のむきな調子には何か涙が滲む程切迫つまったところがあった。余程急に出立でもしなければならないのか、又はその転地が夫婦にとって余程の大事件であるか、何方《どちら》にしろ只ごとではないと思わせた動顛と苦しさとが彼女の全身に漲っていたのである。
千代は、凋れた表情になり、両手を痛々しくひきしぼりながら、
「まあ。――折角お優しいお家に上れたかと思って居りましたのに。――でも……そう云う御都合なら致し方もございませんけれど。私……」
と歎息した。
さほ子は、承知された嬉しさと、二三日でも一緒に暮した者を家から出す苦痛とで、何とも云えない顔をした。
彼女は、あやまるように、ほろりとする千代を励した。そして、最後に今朝買って来た紙包をとり出した彼女は、せかせか言葉を間違えたり、つかえたりしながら云った。
「あのね、これはちっともよくないんだけれど、平常着になるような羽織地だからね。――どこへ行ったって其じゃあ働けないから。……縫って著て。――本当に此那ことになって私気の毒で仕様がないのよ。――それからこっちはね」
彼女は、少しばつの悪い様子をして、たたんである橄欖《オリーブ》色の布を出した。
「裏になるだろうからいやでなかったらあげるわ。元カーテンに使ってあったから片側は、はげているところもあるんだけれど」
千代は、同
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