のがございますんですけれど。――国を出ます時、友達にあずけて旅費をかりましたもんでございますから」
 暫く沈黙の後、さほ子は傍に見ている千代に云った。
「家ではね。お料理は簡単なのよ。だからどうかすぐ覚えて自分でやれるようにして頂戴。今こしらえるのはね」
 彼女は、料理の説明をした。手を動している間じゅう、彼女は調味料の置場所や、味のこのみやその他を話してきかせた。千代は、実に従順にしとやかに一々「はい」と答えた。れんの遽《あわただ》しい今にも何かにつき当りそうなせき込んだはい、はいの連発ではない。艶のある眼で、流眄《ながしめ》ともつかず注目ともつかない眼ざしをすらりとさほ子の頬の赤い丸顔に投げ、徐ろに「はい」と応えるのであった。けれども、両手はエプロンの上に、品よく重ねたきり、一向動かそうとはしない。
「一寸あのお玉杓子をとって頂戴」
 命ぜられた品をとって渡すと、顔ほどは美しくない彼女の二つの手は、眠い猫のようにすうっと又エプロンの上に休んで仕舞う。
 さほ子は、困った眼付で、時々其手の方を眺た。
「――まあ仕方がない。様子が判ったらやるようになるだろう」
 然し、その困ったような、落付かない妙な感じは、千代と二人で食事をした時、一層強くさほ子の胸にはびこった。
 馴れない者同士と云うより異った居心地わるさがあった。千代の優婉らしい挙止の裡にはさほ子が圧迫を感じる底力があった。千代の方は一向平然としている丈、さほ子は神経質になった。
 千代を傍観者として後片づけをしていると、良人は、さほ子に訊いた。
「どうだね?」
 気づかれのした彼女は、ぐったり腕椅子に靠れ込み、髪をなおしながら、余り快活でなく呟いた。
「さあ。――少し疑問よ」
 同じように不活溌な千代の手にやや悩まされながら二日目の朝食がすむと、さほ子は、三畳の彼女の部屋に行って見た。
 千代は、きのう来た時と勝るとも劣らない化粧をこらした顔を窓に向け、ちんまり机の前に坐っていた。
 机の上には、小さい本立と人形が置いてある。人形――人形。
 さほ子は、変な間の悪さを覚えた。彼女は、曾祖母が維新前、十六でお嫁に行く時、人形を籠の中で抱いて行ったと云う話を思い出した。
 今の時代の十九の、故郷を出奔した娘が此那大きな人形を抱いて来ると想像出来ようか。いじらしいような心持と、わざとらしさを嫌う心持が交々《こもごも》さほ子の心に湧いた。
 千代は、その人形を見せ、彼女に国の話をきかせた。
 千代の話によれば、彼女の父は町で有名な酒乱であった。彼女の母は、十年前妹をつれて逃げ、今名古屋にいる。その人形は、数年前、母に会いたさに父に無断で名古屋に行った時、母に買って貰ったと云うものであった。今度、到底いたたまれないで逃げて来るにもその人形だけは手離せず包に入れて持って来たのだそうだ。
 成程古いのだろう。
 やすもののその西洋人形は、両方とも眼がとれていた。亜麻色の濃い髪を垂れ、赤い羽二重の寛衣《シャツ》をつけた人形は、わざとらしい桃色の唇に永劫変らない微笑を泛べ、両手をさし延して何かを擁《だ》き迎えようとしながら、凝っと暗い空洞《うつろ》の眼を前方に瞠っているのだ。
 千代は、越後の大雪の夜、帰らない飲んだくれの父を捜して彼方此方|彷徨《さまよ》った有様を憐れっぽく話した。
 さほ子にとって、其等の話は本当らしくも、嘘らしくもあった。彼女の話す声は全くそれ等の話に似つかわしいものであったが、容子はちっとも砕けず、余り自身の美しさを知りすぎているようであったから。
 さほ子は、陰気になって千代の部屋を出た。彼女は、本当か嘘か判らず而も話そのものは同情を牽かずにいないと云う話は好まなかった。
 三日四日経つうちに彼は家の中だけ歩くようになった。
 従って千代を見る機会も増した。
 彼は風呂場などに行ったかえり、よく妻と顔を見合わせては、むずかしい顔をして頭をふるようになった。
 それに対して、さほ子は瞹昧極る微笑を洩した。
 彼は、湯殿の鏡の前で、彼が後に来たのも知らず真心こめて化粧をなおしている千代を見出した。彼は困って咳払いした。千代は鏡の中でぱっと眼を移し、重って写っている彼の顔に向って華やかに微笑みかけそして、ゆっくりどきながら云った。
「まあ、御免遊ばせ」
 そしてすっと開きから出て行った。
 又、彼女は、食事の前後以外には、どんなに食事部屋でがたがた物を動す音がしても、決して自分の部屋から出ないと云う主義を持っていた。
 彼女の部屋の硝子から、此方に著たきりの派手な羽織のこんもりと小高い背を見せたまま別の世界の住人のように無交渉に納っている。
 千代が、さしずをされずに拵えるものは、何でもない、彼女自身の大好物な味噌おじや丈だとわかったとき、さほ子は、良人の寝台の上に
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