ないけれど。――私困るわ。――返事位少し沢山したってれんを置いて下さればいいのに。……あの人もあの人ね。私に云うと止められるものだから、まるで狡いわ。ただ行って参りますって云うんですもの」
さほ子の声が次第に怪しく鼻にかかり、口先の慰撫が困難になって来ると、彼は、そろそろ自分の所業を後悔し出した。
「いや全く、いくらはいはい云おうとも、いないには増しに違いなかったろう。葉書で呼びかえすかな。然し、又、あれに攻められるのはやり切れないが」
彼等は、おそい昼飯を至極技巧的な快活さに於て食べた。――彼は、出来るだけ愉快な心持で善後策を講じる準備に、体は動せない代り、能う限り滑稽な話題で彼女を笑わせようとした。彼女は良人の仕うちが癪にさわり、憤りたいのだけれども、話されることが可笑しいので、笑うまい笑うまいとしてつい失笑するのであった。
昼餐の時は其でよかった。けれども、もっと皿数の多い、従ってもっと楽しかるべき晩食《ばんめし》になると、彼は殆ど精神的な疲労さえ覚えた、猶悪いことには生憎これが降誕祭の晩ではないか。
縞の小さいエプロンをかけた彼女が食器を積んだ大盆を抱えて不本意らしく台所に出てゆく姿を見送ると、彼は思わず眉を顰めて頭を振った。
都合の悪いのは今朝に限って、寝室にいる彼に明るい夜の台所の模様がはっきり、手にとるように判ることであった。
今、彼女は流しの洗い桶に熱い湯をあけているだろう。ブラシュで面倒そうにくなくなと皿を洗い、小声で歌をうたいながら、側の台に伏せて行くだろう姿がありあり見える。何処かの戸が開いているのか、或は故意《わざ》と閉めずにあるのか、実際彼の耳には、時々瀬戸物の触れ合う音に混って彼女の声が聴えて来た。
其晩迄、彼は若い妻の声に特殊な注意を牽かれたことはなかった。其那に朗らかとも美麗とも思ったことはなかったのだが、ああやって台所から聞くと、何か一種可憐な趣があった。誰の胸の奥にでも必ずぽっちりはある感傷癖を誘い出すように聞えるのだ。
まして彼は生れつき其傾向を多分に持ち合わせていた。彼はメランコリックな表情を浮べた。そして、仰向き眼をしぱしぱさせながら何かを考え出した。
やがて、彼は側の小|卓子《テーブル》の引き出しから一枚の白紙と鉛筆をとり出した。
さほ子が小一時間の後、手を拭き拭き台所から戻って来ると、彼は黙って其紙片
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