を否定的にばかりいいたがるということが、小林秀雄、河上徹太郎氏その他の同傾向の人々からいわれたし、今も、これからもいわれるであろうと思う。一般の読者の中には、現実生活の重苦しさにげんなりした心持をプロレタリア文学の闊達と称せられない有様に結びつけ、その評言を当っているように思い、つづいて昨今青野季吉氏によっていわれている闊達自在論をそれなりによしと感じるひとがあるかも知れない。けれどもよくよく考えて見ると、プロレタリア作家が否定的にものを見るということは全く相対的な関係のもので、大衆生活の要求している積極的なものをいうためには、その反対物として提出されているものに対して先ずそれを否定し、何故にそれが否定されなければならないかを明かにしなければならないのは、誰の常識でも理解されると思う。
例えば増税、物価騰貴に対して大衆は、先ず否定的な感情をもたざるを得ず、その表現は自然否定的な形から入って行く。文学では近頃日本的なものが云々されているが、私たちが日本人であり、しかも最も日本語というものの内容表現と密接に結ばれている日本の作家である以上、どうして日本的なものを否定しよう。逆にいえば、日
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