る感情が流れている。プロレタリア文学は、作者のそういう現実の生活感情が底潮となっているために、作品としてやはり人々の心をひく何かを含んでいるのである。そして、大局的に眺めわたせば、現代の紛糾と困難を縫って猶プロレタリア作品が生れざるを得ない社会の現実の姿が浮上って来るのである。
或る人々は、プロレタリア作品がこのように内包しているプロレタリア性というものに我から全幅の信頼をかけ、その仕事にたずさわっている自身をも比較的手軽くプロレタリア・インテリゲンツィアという風に規定して、自分たちがそのようなものであり、プロレタリア文学の本質が左様なものである以上、現代のような事情の下では、須《すべから》く闊達自在にふるまって然るべしという見解を、今日示している。
闊達自在であり、そのように生活し創作することを希わないというような人間が、この世に在り得るだろうか。誰しもそれこそのぞましい事情と思うのであるが、闊達自在という文学を頭の中で、或は感情の中で、描き想い翹望することと、今日の現実の社会関係の下で、プロレタリア作家が、闊達自在に生きるということとの間には、種々微妙なものが横わっている。
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