心をもたれる一人の若い婦人評論家が現れた。
それは、さきにふれたラリーサ・レイスネルだ。『プラウダ』紙に「戦線」という文章があらわれ、非常な注目をひいた。小説ではない。一九一八年から二〇年にかけてのヴォルガ・カスピ海地方における赤軍の活動、ソヴェト権力確立までの実録だ。が、その事実の歴史的、政治的把握の確かさ、文章の活々した情熱、恐ろしい困難、闘争、建設を貫き彼女が身をもって経験した数々のエピソードの感銘ふかさは読者をつよく動かした。写真を見たものは、みんなはレイスネルの優美さにおどろき、この優美な一人の女性が階級婦人闘士として、不撓に努力した活動ぶりに尊敬を深めた。
ラリーサ・レイスネルは、大学教授レイスネルの娘として一八九五年に生れた。早くからドイツやフランスに住み、カール・リープクネヒトなどと親交のあった大学教授レイスネルの家庭には、革命に対する真面目な関心があって、「十月」の頃ラリーサはまだ二十三歳だった。が、小さい時から革命的影響をうけていた彼女は「十月」と同時に、党員となった。チェッコスロヴァキア戦線へ派遣された。
また、ヴォルガ・カスピ海地方のあらゆる革命戦線に働き、共和国海軍司令部のコミサールをやった。
一九二〇年から二二年にかけてレイスネルはアフガニスタンへ外交官として暮した。翌年はドイツへ。
レイスネルの、豊富な革命的活動の経験、見聞は、「アフガニスタン」「バリケードのハンブルグ」「ヒンデンブルグの国で」となって続々あらわれた。
建設のウラル地方へ彼女が行った時に書かれたのが「石炭、鉄と生きた人間」だ。
レイスネルの初期の文章は、なかなか凝っている。いろんな外国語がはいったり、云いまわしが念入りだったりして、ソヴェト同盟の大衆にはむずかしすぎた。レイスネルは、然し、自信をもっていた。自分はレーニンの文章はきらいだ。あんな味もそっけもない、ボキボキした文章じゃないと云っていたが、彼女が段々革命そのものの中での活動を深め、成熟するにつれてその意見がかわって来た。
レーニンは素敵な文章家だと云うようになった。そして、彼女自身の文章もかわって来た。簡単に分り易く、しかもその一句一句が魂に刻みこまれるように書くことは、書こうとする事をそれだけハッキリ、強く掴んでいなければ出来ないことなのだということを、レイスネルも悟ったのだ。彼女の独特な芸
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