ルゼという人物などはそういう作者の見とおしで扱われている。コンムニストでも決して善玉揃いではない。「何しろ沢山の党員だし、古い歴史をもった党だからタマには蛆虫も湧くんさ。南京虫はどこにでもいる。」
 コンムニストが善玉揃いでないということはその限りにおいて真実だ。しかし、この少くとも第一部には、蛆虫も時には湧かせつつドイツの党がどれだけ大衆によって強力に組織され、世界プロレタリア解放のために闘っているかという積極的な点は、有機的にここに示された消極の一場面と結びついて閃いてはいない。――
 一つの主題を、唯物弁証法的に把握するということは、積極的な面と消極的な面とを、固定した姿で対立させることでないのは自明だ。社会的な大きい事件と日常的些事とをただチャンポンに一篇の中に置くことでもない。
 十月号の『ナップ』に「創作における唯物弁証法的方法に就ての覚え書」を書いた人にとってこんなABCは理屈としては問題外だろう。だが、実際の結果はそういう機械的な印象を与える失敗に陥っている。証拠には、あの一団の日本人の実際生活が、ベルリン大衆の革命的高揚とどういう関係にあり、かつまた遠い故国日本の階級的進展とどういう血の通った関係にあるかという基礎的な階級的位地が、弁証法的具体的に描き出されていない。
 一群の日本人は、切りはなされて浮き上っている。大衆的な行為、階級闘争への結びつきの実際過程のうちに現れたり消えたりする数人の日本人各々の持つ階級的積極性・消極性が、ひとりでにわかるようには書かれていない。坐って喋っている。グループ内でだけ、批評のための批評のような個人に関する批判が出て来る。それゆえ些末な日常的事件は、より広汎な、より能動的な社会的事件の一部=構成分子として吸収されず、どこまでも些末な事件そのものとしてのこるのだ。
 こう書いて来ると、「転換時代」第一部がその失敗において、多くのことをわれわれに教えるのがよくわかる。
 どだい、プロレタリア文学における国際的主題は種々の困難をもっているものだ。
 ソヴェト同盟のプロレタリア文学はその素晴らしい達成にもかかわらず、やはりこの国際的主題を扱ったいい作品のないことは関心の的となっている。
 旅行記、見聞記的論文はある。だが、ほんものの階級的インターナショナルの観点から、唯物弁証法的方法で書かれた小説は、ソヴェト同盟でもまだ
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