改造』の特派員となって軍事記者を勤め「坂本少尉武勇伝」に就いて、どんな階級的批判をも加えず、書立てているのも社民・労農大衆党と等しく、民主主義者と云うものはブルジョアの使傭人であることをなによりも雄弁に示している。これ等の実例でも明かのように、文化芸術に於けるファッシズムは決して或る限界線の向う側にだけ一纏めに固まっていて、その線のこっち側は綺麗だというものではない。一冊の雑誌を取ってみても、一枚の新聞の中にも、或は喫茶店でされる会話の中にも、ファッシズムの浸透とそれに抗して打ち壊《くだ》こうとする大衆の意志は対立して盛り込まれている。
 芸術上、ファッシズムに対する闘争というのは、従って極めて日常的に、細部に亙ってされなければならぬものであり、その闘争はただプロレタリア文学の正当な発展によってだけ行われ得る。それは世界のプロレタリア・ジャーナリズムの確立ということだ。日本プロレタリア文化連盟の出版所はこの意味から重大な階級的任務を持っている。
 プロレタリア各文化団体は、銘々の独特な分野で、最もプロレタリア的な文化戦術を学び取ろうとしている。最も正しい意味での大衆的な文化活動を始めている。然し公平に見て、例えば作家同盟のファッシズムに対する闘争は、やや立遅れの気味だ。ファッシズムに対する芸術的闘争としての作品は今月、徳永が「ファッシズム」と云う題で小説を発表している以外目ぼしいものは今日まで現われなかった。ファシストはこの一部の現象を見て「フン、どんなものだ」と思っているかもしれない。
 然し昨今の作家同盟の活動が急速なテンポで闘争的な大衆の刻下の生活を反映する文化的要求をとりあげていることは、サークル活動、文学新聞の発刊などで明かだ。
 我々は、我々自身の立遅れや、戦術上の未熟を恐れるところなく承認しよう。何故なら我々の場合一つの不備な点を承認するということは既にその不備な点を克服しているということ以外ではない。
 ブルジョア経済機構が、何んとしても取り除けない矛盾を内部に持っているために、ブルジョア文化は螺旋状に低下する許りだ。
 誤謬を誤謬として認識し得ないブルジョア・イデオロギーに対してプロレタリアの世界観はブルジョア・イデオロギーに科学的な解剖と批判とを、厳密な自己批判と共になし得るところに、正しい弁証法的な基礎を持っている。
 ファッシズムに対し、如何
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