は持前のきかん[#「きかん」に傍点]気から中間層のインテリゲンチャが、ファッショ化と共に人道主義的驚愕を示し然も自身では右へも左へも、ハッキリした態度を示し得ないことに憤慨して、「俺は此の世に恐ろしいものはない。ファッシストにだってなって見せるぞ」と大見得を切ったのだ。ところで直木も俗学的な人生観を基礎とはしていても、才人だけあってファッシズムの暫定的な性質はボンヤリ理解し、抜目なく「向う一年間」と自身のファッショ化期限を決めている。この直木の態度と犬養健の態度との間には何処やら共通の一応の悧口さと基礎的な愚さとがある。
犬養健も『白樺』へ小説を書いていた時は、人道主義的作家であった。ところが大人になるにつれて人道主義のヤワイ[#「ヤワイ」に傍点](柔い)ことが判って来た。中途半端な人道主義はイザと云う時、役に立たないと云うことを知ったところは犬養健の部分的な賢さだが、人道主義を清算して親父の秘書となって政友会に納まった所に、彼の決定的な階級性の暴露と見透しのきかないブルジョア・イデオロギーの具体化とがある。直木も似ている。右や左に気兼ねをして、然もどんな実践力も示さない未組織インテリの態度に歯かみ[#「かみ」に傍点]をした所まではいいが、ブルジョア才人は才に堕して、彼の「青春行状記」に現われた直木的科学万能論と共に、六方を踏みながらファッショの陣営へ乗り込んだ。
「俺は何んにでもなってやる」と云いながら決してコムミュニストにならずファッシストになったところに実に津々たる興味がある。何んにでもなれるのではない、ファッシストにしかなれないのだ。然も一種の世間師だから期限付のファッシストを宣言したところ思わず人を哄笑させる。
二
直木三十五の宣言を読んだ時、自分は一つの昔噺を想い出した。
ある恐ろしい山道で一人の百姓が天狗に出遭った。天狗は既に烏天狗の域を脱して凄い赤鼻と、炬火《たいまつ》のような眼をもった大天狗だ。天狗は百姓を見て云った。
「ヤイ虫ケラ[#「ケラ」に傍点]。俺に遭ったのは百年目だ。サア喰ってやるから覚悟しろ」
百姓は浅黄股引姿でブルブル震えながら云った。
「アアこれはこれは天狗様。話に聞いた天狗と云うのは、あなたのことでございましたか。昔から天狗に遭えば生身を八ツ裂にされて喰われるということは聞いておりました。この山中で
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