独特な友情を保った。そのほか、このグループの中にはハリー・バーネー卿があり、詩人のクラッフがおり、クリミヤへも一緒に行ったメー叔母さんもあった。そして、三十年以上彼女の最も緊密な秘書として働いたサザーランド博士があった。当時の社会が婦人の登場を許していなかったあらゆる政治的関係、役所関係の間へ、ナイチンゲールは彼女のあらゆる条件を活用して、ハーバートを動かし、バーネー卿を活動させた。ナイチンゲールに役立とうとして仕事をはじめたこれらの人々は、やがて真剣にその能力と忍耐との極限まで彼女のためにはかたむけつくさなければならないことを知った。寝台の上に真蒼になって息をきらしながら、なお仕事を捨てないフロレンスを見て彼女が骨身を惜んでいるといえる者は一人もないのであった。
「病院に関する覚書」が出て、その方面に根本的改革をもたらしたのは一八五九年のことであった。その翌年にはナイチンゲール看護婦養成所を開設した。彼女の剛毅、機智、大衆から与えられている輿論の支持を全面的に用いて、ナイチンゲールの官僚主義とのたたかいはつづけられていたが、シドニー・ハーバートが病いに倒れるとともに政治的な敗北が、役
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