たのは、作者の日常生活と芸術との統一性の重要さが、一般の注意に上ってからのことである。プロレタリア文学のみならず、古来の優れた芸術家は、仮令《たとい》それが今日から見れば極めて主観的なものであろうとも、自身の生活と芸術とは常に緊密に一致させることの必要を理解していたのであった。嘗て運動の他の面に活動して来た人々が今は文学の仕事をしている、そのことはよいとして、その人々が階級人としての自己のマイナスの面に拠って、今のうちはマア小説でも書いて、という態度でやっているならば、それは決してよろこばしい現象ではないのである。
 今日の若い勤労者とインテリゲンツィアとの日常の苦痛は、職業が彼らの人間の発展のために豊富化のために全く役に立たないものであるという自覚及び一方にそういう不満は持ちながら、生活事情の一般的悪化のために従前よりも一層その職業に縛りつけられていなければならないというところにある。この矛盾に対して手早い目前の解決が見えていないことから、若い三十代の少くない部分が気力を失って現状に対して受動的な態度をとっている。経済的にその日暮しであると共に精神的にもその日暮しに陥っている。他の一部の若い人々は全く山村のようにくよくよしずにさりとて現状に抗《あらが》わず、僅かに自分の時間でせめては本だけでも読んだりして雨宿りでもしているように、現在の状態が通り過ぎることを傍観的に待っている。そのようにして「やがての時代までも健康に生きのびる――その落ちつき」を持った人々に向って、私たちは果して皮肉に陥らずにその健在を祝し得るであろうか。
 読者は本年新年号の『改造』に載っていた河合栄治郎氏の「教育者に寄するの言」という論文を記憶しておられるであろうか。この論文で河合氏は進歩的な一人の教授としての立場から、現代若いインテリゲンツィアとしての学生の気質を詳細に観察して否定的な特徴の主なものとして五つの傾向を挙げている。その一つに、環境の影響に対する受動性と責任転嫁の傾向を挙げている。「希望館」を読み終って私の心に河合氏の論文中の数ヵ所が思い浮んだことは単なる偶然ではないと思う。山村は環境に対して受動的立場を取っている自身の態度を、客観的に批判することの出来ない人物である。社会的現実と個人との関係に於て、環境が人間を作るとだけ一面から観る態度を、若しそれがマルクス主義的な観方の応用であるというならば、誤りも甚しいものなのではなかろうか。環境は人間を作る。しかし人間はまた環境を自分から作ってゆくものである。生活の達人たちは皆この原理を体得した人々である。河合栄治郎氏が、氏としての熱誠を傾けたこの論文の中で、若き時代に健全な人間性を取り戻すためには、従来の意味での形而上学的の理想主義の人生観を彼等の中に確立させてやらねばならないと主張しておられる。「希望館」の山村がそれに対する闘いは全く放棄している非人間的な生活の現実から眼を離して夜は遠くギリシャの哲学の中にプラトーやソクラテスなどと遊んでいるその姿は、河合氏の形而上学的な人格完成の翹望の声を、間接ながら思い浮ばせた。河合氏は、人格は各人の精神的努力に俟《ま》つほかなく、その成長を可能ならしめるためには社会制度をあるべきものたらしめることが必要であり、人格成長は必然に社会改革への情熱を伴うであろうと言っている。そして理想主義者は常に社会改革者であらねばならないと言いつつ、氏は特に高等教育が「学をそれ自体の為に愛するものの為のみ」に解放されるべきことを主張している。この間に氏の学者としての歴史性を示す微妙なギャップと飛躍とが秘されていることを感じるのは私一人ではあるまい。
 先頃「科学者の道」という映画が来て、あれを見た人はそれぞれ心に感動を受けた。科学者パストウルの生き方がわれわれを感動させるのは、彼が科学者として人類の幸福に情熱的に直接に結びついて行った、その姿である。現実の人間の苦痛と不幸に面して、パストウルは科学者としての要求から着実に次から次へと害悪を及ぼす細菌との具体的な、日常に即した闘争を行い、その途上での障害に対しては驚くべき不屈を示した。映画として観れば、細部に納得の行かぬ点、あまり好都合過ぎる点、カメラの効果の点で疑問がない訳ではなかったが、この作品が昨年度の傑作の一つとなり得たのはポール・ムニの演技がこの科学者の人間的諸感情、情熱をその仕事との綜合でまざまざと生かし得たからであった。伝統的な芸術の中でさえも優秀なものは自覚し得ない自身の制約に苦しめられつつ、人間性のあるべき姿を捕えようとする努力を惜しまない。社会の歴史と人間性とを更に客観的な新たな方向と価値で表現すべき階級の作家、特にその人々が実践に参加していたということで先入的な期待を読者に抱かせる習しをもっている作家が、現代の若い三十代の寧ろ否定的な要素を合理化するような客観的効果を持つ作品を書くこと、そのような作家の内部の組立てについては真面目な反省が求められてよいことなのであろうと信じる。
 インテリゲンツィアが階級をもたぬものであることや、可動的な本質から弱いものであるというような一応型にはまった、消極性の自認が近頃はやるけれども、本当に一人一人が、自分の毎日の生活の内部から現実に身をひたして感じつめて行けば、そこにインテリゲンツィアとしての独自的な要求が湧かない訳はないのである。労働者の要求とは又違ったインテリゲンツィア独特の面からの人間的要求、それを実現してゆく熱意、その門を通じて大衆の動きに参加してゆく可能がない筈はないのである。その道をつきつめて行った場合、はじめてインテリゲンツィアはインテリゲンツィアであるからこそもち得るという種類の、労働者とは違った、だが方向を一つにした不屈な強さをもち、質的に発展することが出来るのであると思う。何か目をそらし何か正面から自身の心とさえ取組もうとしない今日の多数のインテリゲンツィアを、先ず自身の日常の可能の自覚の前にぴったりと引据えること、その任務こそ、ヒューマニズムが生新溌剌とした新文芸思潮として負うている任務の最も重大な一つであろうと思う。[#地付き]〔一九三七年四月〕



底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「文芸春秋」
   1937(昭和12)年4月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング