活動をされている。島木氏が四国の方で農民組合の活動をしていたことは恐らく今日では周知の事実であろう。作家島木氏として現れたのは出獄後のことである。その他多くの人々がそれぞれの道の違いはあっても、同じような性質の職能の変化でもって今日作家として活動していると思う。
去年の十二月二十二日にモスクワでニコライ・アレクセーヴィッチ・オストロフスキーがその三十二歳の生涯を終った。彼の作品「鋼鉄はいかに鍛えられたか」は邦訳された。遺憾なことにこの小説の翻訳はその内容の性質によって発売を禁ぜられた。出版当時には二三の人によって作品評を試みられていたのであった。この小説は作者オストロフスキーがロシアの国内戦当時自身経験し又見聞した歴史を描いたものであり、多分正宗白鳥氏であったかは、この作品の題材と筆致とを批評して、期待した程の感動を受けなかったと言っておられたと思う。しかしながらこの小説を読む機会があった他の多くの人々、特に若い層は、この小説から心に触れる印象を得た。オストロフスキーにあって私たちを打ったものは、その不撓不屈な意志で自分の生命を可能なあらゆる方法によって階級の発展のために役立てようとした現実の姿である。
彼は一九〇四年労働者の家に生れ、少年時代から人に雇われて働いた。受けた教育は最低のものであった。電気工の助手として働いている中に一九一七年に逢い、一九二七年、二十三歳で健康を失い四肢の自由を失うまでオストロフスキーは発電所の火夫から鉄道建設の突撃隊、軍事委員、同盟の指導等精力を尽して、組織が彼を派遣した部署に於て活動した。四肢の自由を失って後病床に釘づけにされていながら、彼は後進者の教育の仕事を引受けて研究会の指導などをした。このような状態の時オストロフスキーは更に一つの打撃に堪えなければならなかった。それは両眼の失明である。オストロフスキーは自身によって書かれた、いかにも誇張のない短い伝記の中でこう言っている。「研究会もやめになった。最近は著作に身を捧げている。肉体的には殆どすべてを失い、残されたものは青年の消し難いエネルギーと、わが党、わが階級に役立つ何等かの仕事をしたいという情熱のみである」と。
この情熱によって、これまで小説などをかつて書いたことがなかったオストロフスキーは、異常な努力によって文学の勉強を始めた。そして、長篇「鋼鉄はいかに鍛えられたか」を完成した。第二の長篇「嵐の子ら」が着手せられ始めた頃、彼は自分の病が現代の医学では如何ともし難いのを知って一日に十時間から十二時間も骨の折れる小説口述の仕事を続けた。その一部が書き上げられて印刷に付せられた昨年の冬、オストロフスキーの高潔な生涯は終ったのであった。
一九一七年以来、ロシアは新しい社会の建設につれて過去の世界文学の歴史が持たなかった種類の文学作品とその作家とを世界に与えている。「赤色親衛隊」の作者、故フールマノフにしろ、ゴーリキイにしろ、前例のない作家の典型である。これらの人々は、ゴーリキイのように終始一貫作家としての活動で歴史の推進に参加し、それを反映すると同時に進む歴史の指導的な力に導かれて偉大な完成を遂げた芸術家、或はフールマノフのように銃声の間にも手ずれたノートを皮外套の下から取り出して、その印象を書きとどめずにはいられなかった程、初めから文学のすきな人々であった。これに反してオストロフスキーは、盲目になるまでは、生産の場面政治的の場面に活動して、特に文学が好きというのでもなかった。彼はかつて自分に手足があった時、その若々しい手足の働きで全うして来た自分の任務、その手足がなくなった後は、一対の輝かしい眼によって為し遂げて来たこと、その眼が奪われた後には、彼の強い頭脳と意志とによってなし得ること――「かつてあったことを文学的な言葉で若い時代へ伝えようとする」著作の仕事に従った。このような作家は歴史に今までなかった。オストロフスキーの文学に於ける地位は、その作品の芸術的な価値と共に全くここに重点を置いて、一個の新人間のタイプ、尊敬すべき生命の意味の理解者、実践者として観察され評価されるべきタイプなのである。
大衆の自覚とわが声でものを言わんとする情熱が強くなればなるほど、大衆の持つ社会的・文化的地盤が現実生活の中で高められれば高められる程、大衆の創意性とその表現の形とは多様になって来るものである。それ故、われわれのところに於ても、かつて政治的な活動をした人、組合の仕事をした人々が或る時期にその活動力を文化的な面に向けて働くということは当然あってよいことである。大いにあってよいことなのであるけれども、それは決して条件なしではない。それらの人々が若し過去に於いて健全な活動分子であったのならば、運動が当面していた時期の種々な制約の中におのずからあったとはいえ、正当にそれを発展の歴史として摂取し、それを文学の中に生かし得る実践の価値を発揮することを、文学活動の面での責任条件とされている。直接に自身が経験したあれこれのことを芸術以前の形で記録されることを意味しているのではない。それらの人々が、大衆の中での活動で身につけて来ている階級の具体的な特徴についての把握、複雑な現実の縺《もつ》れの間に歴史の帰趨を見抜く力、その積極的な押し進めのためにあり得る人間の力についての洞察によって、今日の現実を観察して描いてゆく。その点でブルジョア作家に期待し得るものとはおのずから種類を異にした芸術がこれらの人々から期待されるのである。
ところが、今日の実際に於て、そういう種類の作家たちから一般の読者が与えられている作品は、どういう性質のものであろうか。粗大な概括をすることを深く警戒するものであるが、今日までのところ、現れている作品は多く手法の上で何かの問題を持っていることを第二として、人間というものの捕え方に於て、先刻触れた二元性に陥っている傾向が見られる。かつて他の面で活動をしていた人々が、人間の「胸の琴線にふれる」文学の仕事に転じて来た時、センチメンタルになり、人間の観方、文学的表現等では、非常に抵抗少く過去の文学的常套に伏するのは何故であろうか。こういう経歴の作家に通有な文学に於ける面白さが、やはりブルジョア文学の一部の作家がいう面白さと類似したもの或は卑俗さに於て何ら質的に異ったものではなくなって現れて来ているというのは何故であろう。
村山知義氏は一人の能才者である。彼は画を描き戯曲を書き、新たな劇運動にとって欠くべからざる演出者の一人である。この二三年来は小説も書かれる。興味あることは、村山氏がゴーリキイの「どん底」を昨年新たな認識で上演し好評を博したことはわれわれの記憶に新しい。その同じ一人の芸術家が今月は『文芸』の誌上で、「父たち母たち」のような作品を示してくれる時、「どん底」を観、その目でこの小説を読みする一人の読者は、全く相似ない両面の心の形に対して、どう判断するであろう。芸術を愛する程の者ならば、村山氏に、芸術以前の形で分裂のままあらわれているこの矛盾をこそ、人間的なものとして讚歎しなければならない義務を負うているのであろうか。
小説というものには、小説としての美が要求される。これは明らかなことである。しかし小説に於ける美というものは、戯曲や演出などに際してはその芸術家がより高いものへ向って統一している種々雑多の弱点、ごみくたそのもののイージイな展覧にだけ在るのではない。ロマンティック時代の小説のように、これもまた一種の善玉悪玉である奸智に長けた心、ヒステリックな神経的行動の誇張の中にないことも明らかである。
以前プロレタリア作家の特等席ということが言われたことがあった。この言葉は左翼運動の他の場面に働く人々の困難、刻苦に比べて作家は同じ世界観の下にあるとはいえ、その日常の暮しは小市民的な安らかさと物質の世俗的な豊かさの可能に置かれ、小説を書いておればいいのだからという、差別的な理解の上に言われた言葉であった。日本の左翼の運動が当時若く未熟で、文化政策の面で正常な理解と指導とを持ち得なかった一種の文化主義が、この特等席の観念に現されている。このことが稍々《やや》正常に理解されかかった時期に遺憾にも組織が崩されたので、今日でも、かつて左翼的な活動をした人々の通念と日常感情の中には、古い文化主義の根が除去され切れず、残されたままにある。今日の社会の情勢の中で、多くは個人的な事情から文学の仕事をしてゆくにあたって、これらの人々は自分の作家としての活動に、過去の癖から妙な過小評価を持って対している。はっきりした言葉にならぬまでも、文学の仕事を他の政治的な仕事と比べて機械的に下位に置かれた仕事の感じを抱いていないとは決して言えないと思う。今日に於て、自分の最上の努力、最上の献身をもって従事すべき仕事としての自覚、誠実が不足している。さもなければ、文学的には努力のこめられていない安易な作品を、ただ題材が勤労大衆の生活面に触れているというだけの現象性で、とりまとめてどうして安んじていることが出来よう。
加賀耿二氏の「希望館」の主人公仙三は、所謂良心的であるが故に神経質であり、神経質であるから良心的であるかのように描かれている。この神経質で受動的に敏感な男が最後の破局として突発的殺傷をすることは前に述べたが、私としてはこの作者が所謂良心的という人間を描く時に、多くこういうタイプの弱い人間をその面でだけ取り上げて来ていることに或る注目を引かれる。この作者にとって良心的なもののアナーキスティックな突発的行動は仙三が始めてではない。かつて小学校教師の生活を描いた「幼き合唱」という小説があり、作者は同じような破局で、血は流さぬながら物語りを終っている。
「希望館」で作者が支持的に描いているタイプは、仙三の潔癖に反対し「良心で現在何かが解決出来るかい?」「たとえお経を読まされてもだ、それに平然と堪えて居られるような、そんな強靭な意志こそ必要なんだ。くよくよしないでさ、神経衰弱にならないでさ、――そしてやがての時代まで、健康に生きのびる――その落ちつきこそ今大いに必要なんじゃないか」と言って「希望館」で坊主の代理をも勤め、屑屋をしながら夜はギリシャ哲学の本を読んでいるという山村という男である。山村は仙三が江沼を打殺して人に引かれていく姿を見ながら「馬鹿な奴だ。だからそんな良心なんか捨てちまえと言ったのに……」と泣けて泣けて仕様がなかった。これが「希望館」の最後の言葉である。
読者は今日の現実の中で、抽象的な良心[#「良心」に傍点]だけで、何ものも解決されないことは知っている。何時、どのような時代にでも、左翼の運動が昂揚している最中でも、良心だけで解決された何ものも在ったことはなかった。良心はそれが良心であるのならば、些細なことにでもそれにふさわしい行動を生んだ。良心という言葉そのものが一定の規準と行動との関係に於て成立つ言葉である。「希望館」の作者によって言われている強靭な意志というのは、何故にお経を読まされること、阿諛《あゆ》を強いられる境遇に落ちつくことだけを内容とし現代の可能としているのであろう。強靭な意志というのは、日常の現実生活は全く受動的な条件で、最低のところまで引き下がって暮し、インテリゲンツィアの要求として夜は屑屋の車を片づけてギリシャ哲学の本を読んでいる、そのような実際生活上の分裂と薄弱さに対して鈍感になるということを意味するのであるならば、この言葉は作者によって新しい内容を附せられたことになる。山村が、屑屋は只のあり来りどおりの屑屋としてやっている。そのように、政治上の運動をやめて、小説をかいているこの作者は、小説書きとして小説を書いている。その職業の中でその職業に発展的な内容と方向とを附け加えようとする努力こそ、階級人の強靭な意志と称されるに足るものであると考える健全な読者は、この「希望館」の作者の今日に向っての態度に対して数々の疑問を抱くことを余儀なくされるのである。
プロレタリア文学で、所謂特等席の誤った観念が正され始め
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