チメンタルになり、人間の観方、文学的表現等では、非常に抵抗少く過去の文学的常套に伏するのは何故であろうか。こういう経歴の作家に通有な文学に於ける面白さが、やはりブルジョア文学の一部の作家がいう面白さと類似したもの或は卑俗さに於て何ら質的に異ったものではなくなって現れて来ているというのは何故であろう。
村山知義氏は一人の能才者である。彼は画を描き戯曲を書き、新たな劇運動にとって欠くべからざる演出者の一人である。この二三年来は小説も書かれる。興味あることは、村山氏がゴーリキイの「どん底」を昨年新たな認識で上演し好評を博したことはわれわれの記憶に新しい。その同じ一人の芸術家が今月は『文芸』の誌上で、「父たち母たち」のような作品を示してくれる時、「どん底」を観、その目でこの小説を読みする一人の読者は、全く相似ない両面の心の形に対して、どう判断するであろう。芸術を愛する程の者ならば、村山氏に、芸術以前の形で分裂のままあらわれているこの矛盾をこそ、人間的なものとして讚歎しなければならない義務を負うているのであろうか。
小説というものには、小説としての美が要求される。これは明らかなことである。し
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