した現実の姿である。
彼は一九〇四年労働者の家に生れ、少年時代から人に雇われて働いた。受けた教育は最低のものであった。電気工の助手として働いている中に一九一七年に逢い、一九二七年、二十三歳で健康を失い四肢の自由を失うまでオストロフスキーは発電所の火夫から鉄道建設の突撃隊、軍事委員、同盟の指導等精力を尽して、組織が彼を派遣した部署に於て活動した。四肢の自由を失って後病床に釘づけにされていながら、彼は後進者の教育の仕事を引受けて研究会の指導などをした。このような状態の時オストロフスキーは更に一つの打撃に堪えなければならなかった。それは両眼の失明である。オストロフスキーは自身によって書かれた、いかにも誇張のない短い伝記の中でこう言っている。「研究会もやめになった。最近は著作に身を捧げている。肉体的には殆どすべてを失い、残されたものは青年の消し難いエネルギーと、わが党、わが階級に役立つ何等かの仕事をしたいという情熱のみである」と。
この情熱によって、これまで小説などをかつて書いたことがなかったオストロフスキーは、異常な努力によって文学の勉強を始めた。そして、長篇「鋼鉄はいかに鍛えられたか」
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