の在りように照して見れば複雑な内容で力以上のものを、方針から要求されているという感情をひそめていた人々もあると言え、組織が弱くなるにつれそれらの無理が個人の色どりに従ってさまざまのアナーキスティックな批判や反撥として現れた。古い職人的な意味での芸術至上主義や、社会主義的リアリズムの理解を主観的な欲求に引き添えて曲解したりすることが生じたのであった。不幸にして日本では、以来これらの混乱し錯雑した文学上の理解の齟齬を、全面的に生活的に正して行く条件がプロレタリア文学運動として欠けたままでいるのである。従って一般の読者は文学作品と言えば、ブルジョア作家のものも、プロレタリア作家と云われる人々のものも等し並みに、自分の主観的な嗜好に従ってただ読み過す状態に置かれている。
島木健作氏の「癩」「盲目」その他の作品が広く読まれた事情には、これまで述べて来た幾つかの客観的なまた主観的な条件の然らしめたものがあった。「癩」「盲目」等では、やはり人間の肉体的なるものが主となって特殊な事情の綾の中で描かれているものであった。それらの作品が発表された前後の社会的な事情、従来のプロレタリア文学が持っていた或る一様性に対立物としてそれらの作品が読者の感情を掴んだ。けれども「盲目」について見ても実際の生活の場面での問題、島木氏が悲壮な闘士のポーズとして描き出している心理の観照的態度、嗜虐性等は真の意味での健全な闘志の表現としては、少からずいかがわしいものであった。個人的な話の間に何時であったか私は「盲目」の終りの部分に就いて島木氏に、あれはどうも変だ、どうしてあの主人公は釈放を求めずにいるんでしょう、あれでいいんでしょうかという意味を言ったらば、島木氏は例の謹厳な面もちのまま、ああ、あすこのところはこしらえてあるという意味を答えた。そうだとすれば、そこに一層作者の主観の傾向が十分に窺える訳なのである。
以上のことにつれて更に注意を引くことは一方に文学作品に於ける人間性の抽象的な主張が現れた前後から、プロレタリア文学に新しい素質の作家たちが登場しはじめたことである。加賀耿二氏は今から七・八年前「綿」という一作を持って文学の分野に現れた作家であるが、それ以前には組合の仕事、つまり当時の政治的な組織の活動をやっておられたように仄聞《そくぶん》している。獄中生活で健康を害し執行停止され、現在は作家の
前へ
次へ
全13ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング