作家バルザックの慧眼を感じるのであるが、さて、一旦慾にかかって腹をきめてからのシボの神さんの描写はどうであろうか? 私共は慾の女鬼として一貫性はありながら、何だか本当にされぬシボの神さんの現実性を感じる。慾の一典型ではあろうが架空的な誇張や一面的な強調を描写の中に感じ、そこに至ってはバルザックがロマンチストであったことを却って思い返す心持になって来るのである。
この現実の描写にあらわれて来ている理解の食い違いこそ、バルザックが受け身にだけ、而も具体的内容では必然的に違うそれぞれの階級の歴史性を抹殺して、金に支配される点だけを観念化して同一視した彼の世界観を、私共に説明するものなのである。
バルザックはプロレタリアートが次の社会の担い手であることを当時の現実から承認せざるを得なかったのであるが、彼はそれを、「循環する自然の現象」の一つと見て、その意味で避け難いものとした。社会関係で人間の悪徳、美徳は変ると一方に理解しつつ、バルザックは次代の担い手「現代の野蛮人」は、変化された社会関係の具体的現実によってどのように高められ得るかという、発展の可能性は見出し得なかった。だから、彼は飽くまでも経験主義者らしく、また百姓バルザの野心大なる孫息子らしい富農的現実性で、プロレタリアート鎮圧のためには、「彼等すべてに所有の感情を与えよう」とか、カソリック宗教だけが金銭に対する慾心の焔に水をかけるものであるとか、彼等が専制政治の徳を知るまでは不幸に呻吟せざるを得ない等と考えたのであった。
この新たに盛り上って「慎重になった民衆のサムソンは今日以後、社会の柱石を祭典の広間に揺がす代りに、穴倉の中で覆す」であろう階級勢力を、「支配するためには暗黒にとどめて置かなければならない」というバルザックの実践的な結論と、彼が法律や権力の偽善をあばき、それが富者のより富むための道具に過ぎぬことを実に彼独特の巨大な熱情と雄弁とで曝露した事実とは一見矛盾するが如くであって、而も彼にあっては些の撞着もなかった。何故ならば、オノレ・ド・バルザックは二十で、一文なしの見習文士として屋根裏で震えながら海のようなパリの屋根屋根を眺めていた時から、全くすべてのブルジョアの若者が抱くものと同一の端緒的な欲望「金持ちになって、愛されたい」ために焦慮しつくし、更には「金持ちになって、貴族になりたい」ばかりに、死後までのこるような負債をさえ背負い込んだ。パリにおける偉大な地方人バルザックのいかにもその時代のフランスらしい成上り慾は決して彼が希望するような程度に充された時がなかった。彼が必死に富もうとすれば、より富んでいるものが更に富むために彼を詭計に陥れ、富者の権力、その法律はその富者の公然たる詭計を擁護し、裸同然の彼を追いまわし苦しめた。彼がブルジョアジーを猛烈に攻撃するのは、実に彼自身がその一人となろうとする慾望の邪魔をされつづけたからであり、彼の貴族崇拝、正統王党派的見解は、既に崩壊した階級の敵と個人としての彼の敵とが計らずも一致したからのことであったのである。
それであるならばと、私共の心には別の疑問が生じて来る。どうしてバルザックは、その憎むべき階級ブルジョアジーを倒す新手の力、彼の怨恨の階級的な復讐力としての大衆を見ることは出来なかったのであろうかと。答えは、矢張り同じ源泉から引出されると思う。バルザックは現実社会との格闘において、彼が希望したように宏大な規模においてでこそなかったが、既に十分大きい名声と借金とともにではあるが富をも「所有し」その「感情をもっ」ていたのであり、大衆がその土台を穴倉から覆すことがあれば、彼は自身が憎悪に燃えつつ膏汗を代償として奪い掴んだ一片のものさえ放棄しなければならなくなるであろうことをまがうかたなく知っていたからである。
「革命の与える経済的擾乱ほど悲惨なものはない。」最悪よりはより尠き悪を、大衆による広汎な悪徳の伝播よりは、まだしもブルジョアの今のままでの悪行を! そして、自分が無一文になるよりは腹立たしいが今あるものを手離さず! そういうのがバルザックの考えかたの道筋なのであった。
私達はここで一つの意味ふかい手紙の数行を思い起すのである。一九三三年一月に蔵原惟人が獄中から或る友人に宛てて書いた手紙の中にバルザックのことがトルストイとの対比においてふれられている箇所がある。すでにその時分、プロレタリア作家の一部にリアリズム研究の対象としてバルザックがとりあげられ、それに関して獄中の彼へ手紙が送られたのに答えたものである。手紙の筆者が「復活」のネフリュードフやカチューシャが写実的にかけていないこと、その点ではむしろバルザックの諸作品の方がすぐれていると、当時の流行にしたがった解釈を来しているのに対し、蔵原は、トルストイが「復活
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