ックは身をもって金銭という近代文学の一大主題を掴み、終生それについて労作しつづけたのであったが、作家として彼が生きた時代との関係もあって、その主題の歴史性は遂に見通し得ずに生涯を終った。従って、金銭をめぐっての、あのことこのこと、その諸関係が、並列的に現象の平等性をもってバルザックの作家的認識の世界に評価を求めて蝟集して来たのは実に自然な成行であったろうと推察される。バルザックは社会的現実を再現し、而もそれを金銭、利害の根源との相互関係において芸術に表現するためには、実に声をあげて群がり来る無数の印象を掻きわけ、観念ととり組みつつ、全く「自然が真裸になって、その真髄を示すのやむなきに至るまで、根気よく持ちこたえて」「そこまでゆくには」自身、ひとの数倍の汗を彼の有名な仕事着の下にかき、更に印刷工を苦しめなければならなかったのであろう。
ブランデスが、非科学的であったと評し、今日の目で見れば極めてそれが自然発生的にされていたことが明瞭である創作の方法で、バルザック自身、自分の文体の独特性に対してもしかるべき確信は持ち得なかったらしい。苦しまずに、すらすらと整って美しい文章[#「美しい文章」に傍点]を書くゴーチェ、彼の唯一の親友であった同時代の才能を素朴に驚歎して、一八三九年、四十にもなり、既に「人間喜劇」の構想を得て数年後であったバルザックが、小説「ベアトリス」の中に二年前ゴーチェが或る二人の女優について書いた記事からの文章をそっくり真似て借りているなどという愛すべき事実さえもあるらしい。華美でエキゾチックで、ロマンチシズムの真骨頂のような作家的なゴーチェの文章を、バルザックが単純に上手いと感歎したというところにも、まざまざとバルザックが美の内容について錯雑した感受性をもっていたことが覗われるのである。
十九世紀という大きな世紀にふさわしい大きい素質をもって生れたオノレ・ド・バルザックの全生活、全労作を通じて相剋した現実に対する認識の積極面と消極面との激しい縺《もつ》れ合いの姿こそ、実に我々に多くのことを教える。
人間の美徳も悪徳も社会的関係によるものであることを理解したのは、十九世紀の歴史的な勝利であった。更に、その現実社会に、極めて現実的に揉まれ、「観察する芸術家には事物が一番見よいに違いない場所」即ち社会の「下から、群集に混って困苦と苦闘を経ながら飽くことのない天才の資質とをもって其を眺めた」バルザックが、複雑多岐な形態で各人に作用を及ぼしている社会的モメントをつきつめれば、それは二つのもの、色と慾とであることを観察し、更にこの二つのものにあって窮極の社会諸現象のネジは、外ならぬ金銭であることを結論したのは、疑いもなく他の追随を許さぬ彼の現実探求の積極性であった。
ところが、ここに見落してはならぬことは、そのバルザックが自身の悲喜をも含めて運行するあらゆる社会生活の現象の奥に金の力を看破したと同時に、その威力に屈伏し、広汎な現実生活の社会性、歴史的発展の要因をその関係においては飽くまで受動的に固定させてしか理解し得ない状態に陥ってしまった事実である。
金銭争奪とブルジョア階級の資本の集積のためにとられる結婚制度から殖民政策に到るまでの諸手段とその過程を、バルザックは完膚なく文学に描き出し、その点では全くマルクスやエンゲルスにとってさえも有益で具体的な資料を与えた。然しながら、バルザックは、その金銭が本質に含んで刻々に増大させつつある生産諸関係の矛盾や、それによって心然に惹き起される支配階級の質的変化という現実のより深い真相、歴史の動きゆく基本的な動力に対しては、盲目に等しかった。彼は、社会の「複性は同一の実体(彼はここに金を置いた)の諸形態である」と考え、又当時既にブルジョアジーにとって脅威であった民衆の擡頭は、ブルジョアジーが貴族に対して擡頭したのと同じこと、否、貴族に代って権力を把り、貴族の行った総ての悪行を更に小型に没趣味に多数に再生産したブルジョアの醜行非道を、一層卑穢に而も下層階級の夥しい人口の数だけ増大させるに過ぎない恐るべき「近代野蛮人の貪婪」であると理解した。バルザックはパリの階級勢力の移動と栄枯盛衰がその間に激しく行われた七月、二月の政変をも経験したのであったが、彼は社会的変革も要するに金をめぐってもがく人間の流血的な循環運動にすぎぬと、観たのであった。
それにつけて私共の思い出すのは、バルザックがシボの女房を描いた、その描きぶりの特徴である。バルザックは、シボの神さんがポンスの財産をせしめようという慾に目醒めた、その途端に、彼女の平凡な市民的親切心が全く質的に一変した有様を、読者の日常心を刺すような鋭さで描破している。私共は、そこに可怖《こわ》い程なリアリストとして心理のモメントを捕えている
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